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2020年12月

2020年12月31日 (木)

今日で終わった!

終わったのは、書いている5年連用日記帳。

明日からは買ってきている新しい5年連用日記帳へ。

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今の5年連用日記帳は5冊目。

その前は3年日記や1年日記を書いていた。

いま、77歳、たぶん日記を書きはじめたのは40年くらい前だろうから

30歳台後半ころか。

いま書いてる5年日記の5年前の今日書いているのは↓

「晴天続く大みそか。AM何やったか、パソコン以外に。FBにはいろいろコメントした。

ブログ”娘たちの帰省(2)”UPしよう。PM,H(カミサンのこと)と言い争いになり

イヤになって、散歩。1年が終わった。いい年だった」

今日の最後の日記には「大晦日、お墓にG(息子)に会いに行って、いろいろ話した」と書こう。

さあ、明日からはじめる5年日記。

最後まで書けるかなぁ。

最後まで書いたら、82か。

5年日記だから、毎日書くとき、前に書いているものを読んで、だったなぁと思いながら書く。

明日から新しい日記書くときも、そばに2016~2020年の日記を置いて、毎日読もう。

さあ、8時半過ぎた。2階に上がって年越しソバ食べて、紅白観よう。

それじゃ、皆さま、どうぞ良いお年をお迎えください。

2020年12月26日 (土)

今年も年賀状の時期

気になりながら、26日になってしまった、年賀状。
毎年同じパターン。
働いている人たちからは「時間がいっぱいあるんだろうに」と言われそうだけど。
やっと今日、賀状を買ってきた。

去年、年賀状は大リストラした。

年明け、長い間やり取りしてきた人の大半にハガキを出して
「長年にわたりご交誼を続けさせていただきました賀状の交換、
まことに勝手ではございますが、本年を最後とさせていただきたく、
よろしくお願い申し上げます」

ということで、今日買ってきた賀状の枚数は夫婦で60枚。
コンビニで印刷された絵入りの賀状を買ったので、添書して
宛名をパソコンで印刷すれば、明日には出せる。

これまで長い間、年賀状は1年間で撮った写真の中から選び
賀状に貼り、新年のあいさつ文を書いて作っていたので
毎年、結構時間がかかり、年末ぎりぎりの大仕事だった。

今年は一言添えて、宛名を印刷すれば出来上がり。

年が改まれば、70歳の中後半の老夫婦
来年からもこのスタイルにしよう。
それにパソコンでご挨拶、という手もあるし。
さあ、今夜宛名を印刷し、夫婦それぞれ添書すれば、
明日には投函でき、元旦には届きそう。

2020年12月18日 (金)

びっくり、古い仲間から

フェイスブックに友だち申請が届き、了解と返事。

送ってきた仲間はシドニーに住むPaul Reti

ポールに初めて会ったのは、忘れもしない、1974年7月21日。46年前。

何故、突然、しかもFBの友だちリクエストがポールから。

ボクがシドニーに3年間の駐在がはじまった初日、初めてポールに会った。

空港には駐在員が迎えに来てくれていて、そのまま当時出張者の定宿であった

モーテルまで連れて行ってくれた。

飛行機は夜行便、疲れて、シャワーを浴びたあと、ゆっくりしていたら

ドアのベルが鳴った。

送り込んでくれた駐在員が戻ってきたのかなと思い、出てみると見たことのない

大男が立っていた。

それが初めてのポールとの出会いだった。

いろいろ話すがよく理解できなかった。お茶を飲みに行こうと誘ってくれている

ということは解った。

ポールの車に乗り、飲み物が飲めるミルクバーに連れて行ってくれた。

何を話したかは、もちろん覚えていない。

が、ポールが言ったことで、唯一はっきり覚えているのは「この国では皆、

ファーストネームで呼び合う。お前のファーストネームは何?」と聞かれた。

Takanoriと答えたら「長すぎる」と言い、ポールが「TAKにしよう」と。

以来、ボクの名前はオーストラリアではTAKになった。

同じ歳のポールとの思い出はたくさんある。

富士通オーストラリア(FAL)で一緒に仕事したこと、彼がFALにいたころのこと、

FALを辞めてからのこと・・・

3年間の駐在が終わったあと、ボクはFALに何度となく出張した。

出張で行ったときは彼の家に泊めてもらい、ホテル代の半分をポールに渡し

ウインウインの仲だった(当時は精算時、ホテルの領収書を付ける必要がなかった)

ポールはおしゃべりで夜更かし。

寝ようと思ったら「コーヒー飲みに行こう」と毎晩のように誘われ、彼の話を延々と聞かされた。

一度、こんなことがあった。

ポールの仲間のひとりが来たときのこと。

ポールが薬を飲む水差し(名前出てこず)を持ってきて、黒い塊を戸棚の奥から出してきて

ナイフで削りはじめた。

削ったものを水差しに入れて、水を加えて、回し飲みをはじめた。

ポールが「Tak,try」と言い、差し出してきたが、何だかわからないので聞くと「ハッシッシ」

「ハッシッシ」と言われても、その時はわからなかった。

「問題ないよ」とポールに言われ、何度か吸った。

あとからハッシッシで調べたら大麻だった。

ポールが日本に出張で来たとき何度か我が家に呼んだ。

一度、娘にリカちゃん人形をお土産に持ってきてくれたことがあった。

そんなポール、最近は思い出すこともなかった彼からフェイスブックの友だち申請。

きっとポールはフェイスブックでTakanori Hanafusaで検索してボクの名前を見つけ

友だち申請してきたのだろう。

もちろん、友だち申請了解と返事した。

あの話好き、書き好きのポールのこと、頻繁に書き込みしてくるのではと、少々恐ろしい。

理屈っぽいポールの書込みに英語で相対するのは面倒そう。

友だち申請了解したのだから、覚悟の上で、それなりに付き合っていこう。

人間の脳って、不思議。

さっき、夕食に何を食べたか覚えていないのに、44年前の記憶が鮮明に出てくるとは。

2020年12月13日 (日)

「中年の危機」

定年直後から、週3回15分づつ、繰り返しの放送を土曜日45分聴いている

NHKラジオの実践ビジネス英語講座、先々週、先週6回のテーマは「中年の危機」

自分の経験したこととも重ね合わせ、大変興味深いテーマだった。

講座のまとめに以下書いてあった。

「中年の危機」とは「青春が終わったと感じる人生半ばにして味わう継続的な

みじめな気分、自信喪失感など、通常は40歳ころ」と英語の言語、文化を書いた

辞書にも書かれている。

あった、あった、ボクも何度も。

アメリカには「老後」の意味のgolden yearsからできたgolden-agerという語も

あるそうだ。

日本語では「シルバー・エイジ」と言うが、英語では老後の色は「金色」のようだ。

前置きが長くなったが、6回の講座では「中年の危機」がさまざまな観点から論じられた。

「中年」はストレスの多い時期であり「老化」「人生における目的意識の模索」などに

もがき、その過程で不幸だと感じたり、焦燥感を覚えたりすることは珍しいことではないと

論じていた。まさに言い当てている。

ボクは定年退職して16年、今はノーテンキに毎日を過ごしているが、40代50代必死に働いて

家族を守っていた時期はもがきの連続だった。

会話の中で登場人物の男性が発言していた。

「中年というのは、親、仕事上の夢、細身のジーンズをはけることなど、失うものが

増え始める時期。健康上の問題がしばしば持ち上がり、時間は限られているとの認識が

高まってくる時期」

「新たな試練や重荷を引き受ける備えが、自分で思っているほどにはできていない。

中年の危機につきもののストレスや精神的緊張に備えている人はほとんどいない」

そのころの自分を振り返ってみて、その通りだと思った。

別の女性は「ほとんどの炭水化物と精糖の摂取をやめ、ランニングをはじめた。

そして、バケットリストを作成した。油絵教室に通う、ピュリツアー賞のフィクション部門の

受賞作品をすべて読む、ヨガをはじめた」

バケットリストにまつわるアメリカ映画は観たことがあるが、ブログには書かなかったようだ。

大変面白い映画だった。

邦題「最高の人生の見つけ方」TSUTAYAでDVD借りてこよう。

テーマ「中年の危機」、大変興味深く聴いた。

長い間聴いている英語講座のトップに位置するくらいのテーマだった。

2020年12月10日 (木)

今朝のこと

朝7時前、目が覚め、毎朝の日課、枕元のラジオでNHKのニュースを聴いた。

窓から庭を見たら、天気が悪そう、今にも雨が降る感じの空模様。

さあ、どうしよう、今日は木曜日、テニスの日だ。

雨大丈夫かなと思いつつ、起きて朝食を食べ終わったら、雨は大丈夫という感じに

なってきたので、テニスコートへ。

コートはうちから車で20分。

いつもの仲間が来ていて、コートの周りを軽く3周走り、しばらくウオーミングアップの

ため打って、「さあ、ゲームやろう」

ゲームは2つやり、1勝1敗

休んでいたとき、仲間のIさんが「しばらく前の朝日新聞に寄席の招待記事が出ていた」

「いいねぇ、帰ったら見てみる」

帰って見たが見つからず。

久しぶりに寄席に行けるか、行ったら、帰りに美味いものを食べてこようと思ったのに。

寄席は子供がいなかったころ、新宿末廣亭に夫婦でよく行ってた。

テニスは10時から2時間やり、帰ってきたら12時20分、ちょうどNHK第2で

ラジオ英会話、実践ビジネス英語がはじまる時間、大成功。

あのあと、もう1ゲームやらなくてよかった。

今月の実践ビジネス英語のテーマは「中年の危機」

なかなか的を得た、興味を引くテーマで内容も面白い。

ラジオを聴いたあと2階に上がり、お昼。

カミさんに「末廣亭、久しぶりに行かない?」と言ったら「ダメよ、コロナ忘れてるの」

うん、たしかに。

「おさまったら、久しぶりに末廣亭行こう」で、話は終わった。

2020年12月 7日 (月)

庭の樹々

今年も、あと3週間少々で終わり。

早い早い1年が、定年退職したあと、毎年感じる。

毎日大したことをやっていないのに、時間のスピードは働いていたころより

早く進んでいる感じがする。

こうして、そう遠くない終着点まで、時を刻みながら進んで行くことだろう。

さて、庭の樹々が冬に向けて、それぞれの態勢に入っている。

左さざんか、右さるすべり。

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このさるすべりの樹、植えて30年以上経つ。

小さく細かった樹が大きく逞しくなってきた。

毎年、夏には花をつけて楽しませてくれる。

このさるすべりの樹を見ると思い出すことがある。

勤めていた富士通では当時45歳になると、職場から離れ、FIMATと呼ぶ研修を

2カ月間受けることがルールになっていた。

ボクが受けたのは社内のさまざまな部門から集められた部長向けのクラスだった。

45歳の者が30人くらい集められ、2カ月間かんづめ。

「俺がいなければ、あの組織は」と思う者ばかり。

最初は自分の部のことが気になり、多くの者が電話をかけていたが、皆自分がいなくても

問題ないということに気づき、夕方終われば、コース内の仲間で飲みに行ったり、

マージャンしたりということになっていった。

部長がいなくても問題ない、とコース参加者に認識させることが会社のねらいだったのだろう。

コースではさまざまなことを学んだ。

組織論、コミュニケーション論、経済、財務、法律、会計などに加え、平素縁のないさまざまな文化、

芸術等を教わった。

そのひとつに俳句があった。

先生は亡くなられた俳句界の第一人者のおひとり、金子兜太さんだった。

数回あった講義は大変面白かった。

庭の樹々からはじまった前座話が大変長くなっている。

金子先生から「今の時期にふさわしい句を各自ふたつ作って、次回発表」との宿題が出た。

時季は7月。

頭を相当ひねった挙句、2句が出てきた。

ひとつは、ちょうど時季だった庭に咲いたさるすべりを見て思いついた句

「さるすべり、今年の紅はいまひとつ」

今でも毎年、夏の時期になり、庭に出ると思い出す。

もうひとつのお題は天気図、こちらは詠んだ句を思い出せない。

45歳教育だったから、30年少々前、思い出せなくても仕方ない。

このブログを書いていて思った。

ヒマなんだから、時には俳句を考えてみようと。

2020年12月 5日 (土)

一昨日のこと ③

2泊した熱海から4日前に横須賀に帰ってきた。

今回、熱海に行った目的は、沼津裁判所で交通事故の民事訴訟を傍聴することに加えて、

もうひとつあった。

それは、息子の追悼文集を熱海から持って帰ってくること。

25年前、無謀運転のトラックが息子の運転していたバイクにぶつかってきて23歳で息子は

亡くなった。

突然、我々家族は悲しみのどん底に突き落とされた。

特にカミさんの落胆、落ち込みは激しく、何とかしないければとの思いに苛まれた。

そこで夫婦で思いついたのは、息子の追悼文集を創ること。

ネアカで、驚くほど友だちの多かった息子の仲間たちに、あの子の追悼文集を創りたい旨を

書いた手紙を送り、あの子との思い出を書いて欲しいとお願いした。

たくさんの仲間が息子との思い出を書いてくださり、すばらしい追悼文集が出来上がった。

表紙のデザインはテニス仲間のHさんに描いていただいた。

「ゼッタイそうしたい」と考えていた通り、一周忌の法要の席で出来上がった追悼文集を

仲間の皆さんにお渡しした。

夫婦で考えたタイトル「君に会えてよかった」には、多くの意味がこめられている。

息子から仲間たちへ、仲間からあの子に、それにもちろん、家族から、あの子へ。

写真は、追悼文集の巻頭につけたもの。

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280部創った追悼文集が横須賀の我が家に1冊も残っていないことが最近判明。

きっと、あの子の思い出の場所として買った熱海には1冊あるはずだと思い、今回熱海から

持って帰ってくることした。

行ってすぐ書棚を探したが、ない!!

横須賀に帰ってきて、その旨カミさんに話したら激しく叱責された。

渡した仲間や知り合いに声をかけることは憚り、郷里の倉敷の弟のところに電話し送って

もらえればと頼んだ。

弟の奥さんからメールがあり「我が家とお母さんのところに2冊あるので1冊送ります」

とのことで、ホッとした。

上の写真は昨日送ってもらった追悼文集から。

残りの279冊はあの子の仲間の家、ボクの知り合い、遺族の仲間、親戚他のお宅の書棚に

置いてもらっていることだろう。

2020年12月 1日 (火)

一昨日のこと ②

今回2カ月ぶりに熱海に来たのは、沼津地裁で交通事故の民事裁判を傍聴するため。

民事訴訟を申立てした人は三島在住の女性のNさん。

Nさんに初めてあったのは、事故から間もない2年前、沼津駅前でNさんご家族が

やられた署名活動に参加し、皆さんと一緒に「署名をお願いします」と言いながら

検察庁に提出する署名を集めたときだから、1年少々前。

昨日朝も、いつものことだが、モタモタしていて、家を出るのが少し遅れた。

伊東線で熱海まで行き、東海道本線で沼津へ。

途中、車窓から富士山がきれいに見えた。

沼津駅下車、沼津地裁は以前にも何度か行ったことがあり、駅からの道は覚えていた。

地裁に着くと、注目の裁判なので、傍聴券を配っていた。

15分遅れ、並んだのは、ほとんで最後尾。

配布数がなくなり、残念ながら、傍聴券はもらえず。

もっと早く家を出ればよかったと後悔したが、あとの祭り。

しかたないので、審議が行われる8号法廷へ行き、法廷前のソファに座り、新聞を

読んで待つことに。

審理中の法廷を入り口の扉にあるのぞき窓からちょこちょこ見ていたが、法廷の臨場感は

もちろん、伝わってこない。

審理中の法廷を映すテレビ設備が法廷の外に置かれた裁判所は珍しくない。

沼津地裁にはそのような設備はなく、退屈しながら、閉廷するのを待った。

11時半過ぎ閉廷、原告のNさん、弁護士の高橋さん、20年来の知り合いのルポライターの

柳原さんが出てきた。

閉廷後、毎回のようであるが、みんなで道をはさんだ前の場所に移動し、Nさんがメディア各社から

取材を受けた。

その模様は、テレビ、新聞が取り上げた。

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Nさんに沼津駅まで車で送ってもらい、沼津駅構内にある寿司屋で、高橋さん、柳原さん

3人でお昼を。

沼津駅前には思い出がある。

去年の9月、Nさんの署名活動に参加した場所が沼津駅頭だった。

あれから1年少々、この先は卑劣な加害者を徹底的にたたいて、50歳で無念の中、

子どもさんたち、お孫さんたちとのすばらしい日々が一瞬にしてすべて無くなってしまった

お父さんの無念の思いに、ほんのわずかでも寄り添う思いでこの先も続くも民事訴訟を傍聴したい。

卑劣極まりない加害者の女、徹底的に叩いて欲しい。

次回、1月21日に予定されている被告本人尋問、避けられない予定と重ならない限り

傍聴させていただき、事態の進展を見続けていきたい。

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