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2020年10月

2020年10月29日 (木)

熱海で2泊したあと ③

今回も妹の車に乗せてもらい、帰省時の定番である、あちこち墓参りをした。

両親と弟の眠る墓へ参った翌日、倉敷の西のオフクロの郷里の墓へ。

ここにはオフクロの両親が眠る。

小学生のころ、倉敷から1時間近くバスに乗り、降りたあと高梁川の岸辺の道を延々と

歩いたところにおじいさんの生家があった。

娯楽のない時代、家族でこの生家へ行くのは大きな楽しみだった。

家の裏には先祖の墓があったが、母が存命のころ、そこから数キロ離れたこのお寺に

墓地を求め、いま母の両親はこちらの墓に眠っている。

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右の小さな墓は幼くして亡くなった母の妹の墓。

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おじいさんはかろうじて覚えているがおばあさんは40歳台後半に亡くなったため知らない。

お参りする人は、ボクと妹が来ない限り誰も参ることのない、寂しいお墓。

このあと、岡山に戻り、次にお参りしたのは、亡くなった妹のダンナのFさんのお墓。

奇縁なことに、このお寺はカミさんの家の菩提寺でもあり、ご住職は顔なじみ。

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妹のダンナのFさんはボクと同じ歳。生まれた日も1週間くらいしか違わない。

亡くなって7年になる。

長男は家庭をもち、孫も7歳になる。

元気だったら、妹ともども、孫の成長を楽しみに見守っていたことだろう。

極めて残念。

あとは、花房の先祖代々の墓。

こちらは少々遠方なので、今回は失礼した。

この日の夜は妹の息子を誘い3人でかっぱ寿司に行った。

2020年10月27日 (火)

熱海で2泊したあと ②

大阪でKさんの裁判を傍聴したあと、郷里の倉敷へ移動。

高校まで過ごした倉敷の我が家は大原美術館のある美観地区から歩いて10分足らずのところ。

いまは、家は人に貸して久しい。

そのため、帰省したとき毎回泊るのは岡山にある妹宅。

泊ったときの朝の日課は歩いて10分足らずの池までの散歩。

この日の朝は珍しく目の前でナマズが釣れた。

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妹宅には3泊し、いつものことながら、妹の車であちこち連れて行ってもらった。

毎回帰省時メインは墓参り。

泊った翌日、3カ所の墓へ参った。

先ず、倉敷の墓に眠る両親と弟のところへ。

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そのあと、大きな池がある酒津へ。

正面に見えるのは15樋と呼ばれる樋で、この樋を通し、奥にある高梁川から水をこの池に

取り込み、それを下の写真の7つ樋を通し、倉敷市内を流れる川に流すという仕組みになっている。

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下の7つ樋では、水中メガネをつけて、かんなぎという小さいウナギを捕まえていた。

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酒津には思い出がいっぱいある。

小学生のころだから70年近く前、娯楽のほとんどなかった当時、夏休みには家からバスに乗り

オフクロが3人の子供を連れて、我が家から7~8キロ離れた酒津に泳ぎに連れて来てくれていた。

上の写真の池の岸の桜の木の下で持ってきた弁当を広げて食べ、オフクロは子供たち3人が池で

遊ぶのを見ていたことを思い出す。

たぶん倉敷からのバス代は10円くらいだったのだろう。

何も娯楽のない時代、子供たちにとって夏の大変な楽しみだった。

15樋の上の道を超えて高梁川を見に行った。

こちらはもちろん遊泳禁止。

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思い出にひたれる酒津は何度行ってもいい。

大好きな場所。

2020年10月24日 (土)

熱海で2泊したあと ①

新幹線で大阪に移動。

大阪で知り合いの民事裁判傍聴。

交通事故でお嬢さんを亡くされたKさんの第1回控訴審。

Kさんの裁判は一審も傍聴したことがあり、Kさんは一審の判決を不服とし控訴。

新大阪から乗ったタクシーが渋滞にはまり、大阪高裁に着いて法廷に行ったら

控訴審裁判は終わっていた。

Kさんに会い、遅れたことを詫び、ご家族3人とお昼をご一緒した。

行ったお店は、以前Kさんの一審裁判を傍聴したあと食事した堂島川沿いの同じ店。

法廷での様子を聞いたあと、4人でワイワイおしゃべりしながら食事。

食事が終わったあと別れて、ボクは以前から大阪に来たら行きたいと思っていた

ところに行った。

行きたかったのは大阪の八尾市。

21歳のころだから、もう56年前、大学3~4年生のとき住んでいた町。

住んでいたのは西本化工というプラスティック成型の町工場の宿舎。

大学の掲示板で住み込み、家賃無料という掲示を見て、仲間のMくんを誘い

1年半くらい町工場の一角にあった6畳一間の部屋に住み込み。

タダだったには訳があった。

朝従業員が出勤する前に工場のボイラーに火をつけることが仕事だった。

6時、M君と交代で起きて、油に浸した軍手に火をつけ、ボイラーに投げ込み、ボイラーの

点灯を確認するのが仕事だった。

これで、ふたり、部屋はタダ。

だが、問題は大学までの通学時間。

八尾駅まで10分くらい歩き、電車に乗り、六甲道の駅からバスに乗り、大学までは

2時間以上かかった。

当然、大学に行く回数は減り、後半はゼミと試験のときくらいとなったが

何とかふたりとも4年で卒業できた。

そんな思い出多い、八尾、一度どうして行きたくて、この機会を逃してはと思い

裁判を傍聴したあと八尾まで電車に乗って行った。

あとは、西本化工があるかどうか。

55年前の記憶、唯一の頼みは西本化工のすぐ近くにあった八尾高校。

駅を降り、駅前、周辺は当然のことながらまったく様変わり。

交番に行き、八尾高校までの道を聞いた。

教えてもらった川沿いの道を八尾高校まで歩いた。

一帯はもちろんのこと、八尾高校も完全に様変わり。面影はまったくなし。

八尾高校のそばにあった西本化工らしき町工場も見当たらず。

事前に「八尾市 西本化工」でネット検索し、ヒットしなかったのでダメかなと

思ってはいたものの、やはり八尾高校の近くに西本化工はなく、八尾高校も

当時の面影はなかった。

「当然だろうなぁ」と納得し、八尾駅まで戻り、新大阪駅まで行き、この日泊る

岡山の妹宅に行くため新幹線に乗った。

「だめだろう」と思いながらも行った八尾、残念ではあったが、これで得心した。

2020年10月21日 (水)

久しぶりに熱海へ

昨夜から熱海のマンションに来ている。

熱海に来たのは7月以来。

ここにマンションを買ったのは95年12月。

買おうと思い立ったきっかけは、新聞の広告。

我が家はこの年95年3月に息子が大学を卒業し就職した。

就職し3か月後の7月、仕事中、無謀運転のトラックが息子の運転していたバイクに

突っ込んできて、息子は亡くなった。

我が家は、突然どん底に突き落とされた。

特にカミさんはもう立ち直れないのでないかと思うほど心身ともに大変な状態に陥った。

何とかしなければと思い、見つけたのが我が家にあったこのマンションの新聞広告。

息子が就職して間もないころ「うちもこんなの買わない」と言ったものの言下に

「縁がないよ、こんなマンション」と言ったが、新聞広告は引き出しに入れておいた。

毎日カミさんの厳しい状態を見ていて、何とかしなければと思い、この新聞広告を出してきて

「豪が言ってた、このマンション観に行ってみない」と話し、95年12月半ば過ぎていた時期に

ふたりとも縁もゆかりもなかった熱海に初めてきた。

今でもはっきり覚えている。

内覧し説明を聞き、最寄りの来宮駅まで歩き、駅の前から見た暮れなずむ熱海の夜景。

「思い切って買おうか」と切り出したボクに、その場でカミさんがどう反応したかは覚えていない。

今でも、来宮駅の前に行くと必ずその時見た夜景と短かい会話をしたことを思い出す。

「あの子が買おうよ」と言ったマンション、思い切って買おうよとふたりの思いが合うまで

そんなに時間はかからなかった。

このようなきっかけで購入したマンション。

あれから、25年になる。

もともとはリゾート用に建てられた85戸のマンションだが、入居したころ知り合った人たちも歳を重ね

売却した人もいて、そのあと地元の人たちも入り、入居者の雰囲気はいくぶん変わってきた気がする。

25年の間にいろいろあった。

定年退職したのは2004年。

退職する前は毎週のように金曜日会社から帰ったら、夜遅く車で家を出て、2時間かけて

夜中に熱海に来て、日曜日の夜、とんぼ返りで横須賀に戻るという週末が続いた。

が、今ではカミさんはほとんど来ることはない。年に1回くらいか。

ボクも数カ月に1度。

来れば、食事を作らないとダメだし、横須賀では日々それなりにやることがあるので

どうしても足が遠のく。

来れば、温泉は夜中まで入れるし、12.5mの短いプールや運動できる施設もいろいろあるし、

古くから知った仲間もいるし・・ではあるものの、2時間かけて来るとなると少々億劫。

居をかまえて25年の間にいろいろあった。

3年間マンションの理事をやったあと請われて1年理事長をやった。

今は亡くなったが、縁あって知り合った市内の旅館のオーナーであった方を通し熱海市の市会議員の

方々とも知り合いになり、一時期議会の定例会議の傍聴に合わせ来ていたこともあった。

また市長の齋藤さんともお近付きになり、我が家のベランダでやったバーベキューにも来ていただいた

ことがある。

そんな縁の深い熱海であるが最近は足が向くことが少なくなった。

今回は明日、知り合いの裁判を大阪で傍聴する予定があるため3カ月ぶりに来た次第。

2020年10月13日 (火)

積年の思い、やっと思いが叶いそう

1ヵ月前に書いたブログ「今度こそ、思いを遂げたい」で横須賀市議会の

犯罪被害者基本条例検討協議会で意見を述べたことを書いた。

その後、進展があり、昨日、最後の協議会を傍聴した。

傍聴者はふたり。

まあ、一般の人たちにはほとんど興味のない話なので、しかたない。

昨日は4回目の協議会だった。

9月18日の協議会でボクが発言したあと、この1カ月の間に3人の被害者遺族が

日を替え発言された。

この3人の方々は、事務局から「適切な方を3名紹介していただけないか」との

要請があり、神奈川県在住の知り合いの3名の方々にご無理を言い、お願いした。

3名の内おふたりは交通事故で息子さんを亡くされたご遺族のお母さん。

おひとりは20年前、お嬢さんを暴漢による殺人事件で亡くされたお父さん。

ボクのあとKさん、Wさん、Hさんの順で今月3人が発言してくださった。

毎回、傍聴させていただいた。

3人の方々皆さん、ご自分の体験をお話になり、犯罪被害者支援条例に対する

思いを語って下さった。

条例制定という観点からは、先輩市である茅ヶ崎市役所から来られた方が茅ヶ崎市の

条例についてお話してくださった。

あらかじめ、参加議員10名に茅ヶ崎市の条例が配布されていて、各自読んでいて、

来年3月までに自らが条例を制定するのだとの意識でたくさん質問が出て、昨日の協議会は

議論が白熱した。

茅ヶ崎市には協議会の委員長を務めた青木議員と一緒に3年くらい前お邪魔し色々教えを

乞うたことがある。

横須賀市に条例ができた暁には、今後茅ヶ崎市ともいろいろ連携が取れることだろう。

次回は、強姦、殺人未遂の被害者の方、後日の協議会では市内の保険福祉大学から先生を招聘し

話していただくとも聞いている。

議会の関係者は被害者だけでなく幅広い層の方々から話を聴き、既に犯罪被害者支援条例つくりで

先行している他市に優るとも劣らない犯罪被害者の視点に立った条例が作られることを願っている。

ゼッタイに40万都市横須賀には犯罪被害者支援条例が必要であるとの強い信念のもと動きはじめて

5年が経った。

議会の生活環境常任委員会で条例制定の必要性を訴えたのは5年前の12月

これが出発点だった。議員、議会の反応はあまりなかった。

次にやったのは、3年前、17年10月、市長への直訴

昨日、帰宅する電車に乗ったとき、やっとここまで来たとの思いがわいてきた。

議員たちの掲げる条例制定の目標時期は来年3月。

横須賀市で条例が出来れば、神奈川県では茅ヶ崎市、横浜市に次いで3市目となる。

道は遠かったが、今度こそは何としても、との思いを一層強くした。

2020年10月10日 (土)

「友達は何のために」

これ、自分で考えたテーマじゃない。

定年退職直後から、もう16年、他の予定とぶつからない限り、週4日聴いている

NHKラジオの実践ビジネス英語の先月のテーマだった。

講座は冒頭、会話は「死ぬときに人が後悔することの上位5つは?」からスタートした。

ひとりが答えて「オフィスでもっと長い時間を過ごせばよかったは、きっと上位の5つには

入っていなかったでしょうね」との問いかけに「入っていません」

「古い友人たちともっと連絡を取っておけばよかった」と会話は続き、あとは親しい友人を

持つことの大切さをメンバー全員が語り合った。

自分のことを考えてみた。

先ず、小中高から今でも交流が続いている仲間は年賀状のやりとり以外でどれくらいるだろうか。

大学の仲間はどうか?会社の仲間は?退職してからの仲間は?

大学の仲間は寮で一緒に青春時代を過ごした仲間たち、こちらは今でも定期的に飲み会を

やっているし、メルアドもわかっているのでOK

郷里の倉敷で小中学校を過ごした仲間は疎遠になって久しい。

数年前に地元の仲間がやってくれた同窓会で会って以来、連絡を取ることはほとんどない。

高校時代の仲間は、時々東京で集まっているので、それなりにOK

職場が一緒だった仲間、今は集まる機会が少なくなったが、一番最近の仲間なので大丈夫。

あとはと考えてみると、テニスクラブの仲間、NPOやオンブズマン活動の仲間は、ちゃんと

つながっている。

他は会う機会はほとんどないネットでつながっている仲間。

ネットのおかげで昔と比べれば格段に恵まれている。

あらためて、こうして考えてみると、英語講座の主題だった「友達は何のため」については

それなりに恵まれている、と平素考えたことのないテーマに合点した。

2020年10月 4日 (日)

これが最後

定年直後に買った車、プリウスを買い換えた。

16年乗って、走行距離は3万キロ少々。

遠出するわけじゃない、スーパーへ買い物とテニスコートの往復くらい。

車の運転は、そもそもあまり好きじゃない。電車が楽。

さりとて、車がないと不便を感じる。

この車が間違いなく最後と言い、長い付き合いのあるトヨタのSさんから購入。

買った車はパッソ。

プリウスより一回り小さく、扱いやすく、年寄りには向いている。

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パッソを無事故、無違反で乗り、車は終わりにしようと思っている。

そうなれば、40年通っているテニスコート行きも終わり。たくさんの仲間ともバイバイ。

あとは自転車。

ボールを打ちたくなれば、自転車で10分少々のところに壁打ちができるところがある。

考えてみれば、初めて乗った車は、大学3年生のときオヤジが3万円で買ってくれた

ポンコツのダイハツ。

大学に入ってやりたかったことのトップは運転免許の取得だった。

買ってもらった車で、夏休み幼馴染のタケシさんとカッチャンを誘い、神戸の下宿まで

行ったのを思い出す。

倉敷の町を出た直後、百舌鳥が花の国道の坂道で停まり、動かず、2人が降りて押して

何とか動き出した。

その後も何度もエンコし、押しの連続で、最も大変だったのは姫路の町中の国道2号線で

停まったとき。

だましだまし、最後は神戸の下宿に何とかたどり着き、銭湯へ。

真っ赤に日焼けしていて風呂で「ぼっけい、はしるのー(岡山弁で激しくヒリヒリする)」と

大きな声で言ったのを今でも覚えている。

60年前、岡山県には自動車学校はここだけというころ、オヤジに頼み、お金を出してもらい

夏休みに通わせてもらった。

倉敷から汽車に乗り岡山駅まで行き、自動車学校のバスに1時間くらい乗り1カ月近く通った。

それ以前、岡山県には自動車学校はなかった。

その当時は通っていた中学校の校庭で、学校が休みの日に運転免許実技試験が行われていた。

校庭に車幅少々のロープを張った仮設の道を走り、ロープを踏まないで走ると免許がもらえた

良き時代だった。

道路を走る車は少なく、これで大丈夫だったのだろう。

あれから、60年。

まさに隔世の感。

2020年10月 2日 (金)

昨日の重大な事故

毎週金曜日午後、近くの市の施設でやってる25人くらいの高齢者が集まる運動に今日も参加。
1時から4時まで3時間、休むことなく、毎週楽しみに通っている。
 
同じテーブルの男女6人とも仲良くなった。
 
そのうちのひとり、となりの席の仲間が「富士通、大変でしたね」と。
 
もちろんすぐ、昨日起きた東京証券取引所のシステム傷害のことだとわかった。
 
昨日ニュースを聴いて即思ったのは、東証にシステムを納めて長い富士通の機器の不具合で
起きた事故ではないのだろうか。
抱いた悪い予感は的中。
 
昨日一緒にニュースを観ていたカミさん「あなた定年して何年になるの。いまだに富士通、
富士通と言ってるのはおかしいじゃないの」
いやー、そんなもんじゃないと思うものの、何も反論せず。
 
99年、東証が取引をシステム化して以降、初めて全銘柄の株式の売買が終日停止の大事件。
 
聞いたとき即思ったのは、運用システムの問題であればいいが・・・
ところが最悪、納入した機器の故障が原因。
ハードウエアの納入業者としては、まったく申立てがたたない。
 
幸い、今朝9時から取引は再開。
故障したハードウエア機器を取り替えたのだろう。
 
機器を納入し、機器の保守責任のある業者として、責任を取り、東証から遺失した損出の補償、
社会的責任を問われることは間違いない。
 
今日の株価下落が大いに気になったが、思ったほどの値下がりはなく、その点、少し安堵した。
 
会社にとって大変な教訓になったことだろう。
 
社会的責任を全社挙げて一層肝に銘じ、災い転じて、2度と同じことは起こさないとの強い覚悟で
臨んで欲しいと、退職し16年経った先輩のひとりとして、切に願ってやまない。

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