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2020年5月 3日 (日)

英語では苦労した ①

希望を出して、オーストラリアに駐在したのは1974年から3年間。

その少々前、勤めていた富士通では海外に目を向けはじめた。

会社は「これからは海外でコンピュータービジネス」と思いはじめた時期

だったのだろう。

手始めにスタートしたのは、ニューヨークに駐在員事務所を設けたり、

それぞれにきっかけがあったのであろう、フィリピン、ブラジル、

ユーゴスラビア、ブルガリア、スペイン、オーストラリアなどで

手探りでビジネスをはじめた。

1966年、大学を卒業し、興和という会社に就職した。

当時、神戸で4人で住んでいた下宿で、怠惰な生活をしていて4人ともあまり

学校に行ってなかった。

そんなある日、大学に行くと就職の募集がはじまったいた。

名古屋に本社がある興和という会社が交通費を支給するという就職説明会の案内を見て

行ったことのない名古屋なので、下宿の仲間とふたりで行くことにした。

興和は名古屋では財閥で、キャベジンやコルゲンほか医薬品の製造、販売に加え

紡績、商社など幅広くやっている企業。

入社試験を受けたらふたりとも合格。

親父に連絡したら「銀行か商社でないとダメだと」しかられ、大学の教務課に行き

やめたいと言ったら「ダメだ。そんなことしたら来年から採用募集がこなくなる」と

言われ、入社を決めた。

興和には4年間勤め、福岡で勤務。

寮に住み、寮は福岡の繁華街、中洲の近くにあり、若いこの時期いろいろあった。

50年以上前の話。

世の中、コンピューターが話題になりはじめたころだった。

同時に、先々このままでいいのかと思い始めた時期でもあった。

これからはコンピューターではと思うようになったそのころ、福岡の寮で読んだ新聞で

富士通がコンピューター エンジニア要員を応募していることを知り、福岡の営業所に

面接を受けに行った。1969年のこと。

面接を受け、入社を希望するなら東京の本社に行って面接を受けるように言われ

生まれてはじめて東京に行くことになった。

忘れもしない、大手町の本社の1階に置いてあった大きなコンピューターを初めて見た。

面接を受け、システム エンジニア(SE)になりたいとの希望を強く言ったのを

今でもはっきり覚えている。

後日採用通知が届き、入社が認められた。

1970年に入社、SE向けの教育がはじまった。

40人くらいがいたが、大半は社内配転者。

中途入社は、ボクともうひとりS君だけだった。

社内配転者は全員、それぞれの職場でコンピュターを使っていて、当時会社が増員を

目指していたSEの配転希望者ばかり。

当然コンピューターは解っていて、知識のないのはSくんとボクだけ。

1カ月くらいの教育が終了し、全員SEの職場に配属された。

忘れもしない、配属されて間もなく「行ってこい」と言い行かされた保土谷化学という

お客様で言われることが理解できず、大変だったことを思い出す。

当時、大変な中で毎日のように寮に帰ると思い出していたのは、お付き合いしていた

門司に住む女性Tさんのこと。

そんな中、母親から見合いするようにと言われ、帰ってくるようにとの連絡があり、

帰省してカミさんと初めて会ったのが1970年。

完全に外れてしまって「英語では苦労した」にたどり着かない。

これについては②以降で。

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