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2020年5月

2020年5月31日 (日)

ZOOMミーティングに参加

月1回、日曜日の6時から、メンバー4人が集まりやっている横須賀市民オンブズマンの月例会。

今月はコロナ禍のため、夕方集まることなく、ネットでZoom会議をやった。

Zoom会議をセットアップしてくれたのは、一番若い弁護士のHさん。

事前にメールでミーティングID、パスワードが送られてきて、部屋のパソコンの前に

パジャマで座り、スタート。

参考までに「オンブズマン」とは(ウイキペディア解説)

 「行政機関を外部から監視し、行政機関による国民の権利・利益の侵害に対する調査及び救済の

  勧告を図る公職」

今日のテーマは「6月市議会に向けて」

市議会の傍聴は定年退職後、数知れずやった。

毎回傍聴席にいるのは10名以下。

41人いる議員で在任中1度も議会で質問しない議員もいる。

質問しても、質問内容、レベルに疑問を感じる議員も珍しくない。

6月議会はコロナ禍を理由に、議員の一般質問はなし、従って質疑もなしということで

決まったことに対し、おかしいと、今日のZoom会議は盛り上がった。

年収1300万円もらっている議員、議会質問も討議もしないということは理解できない、

問題にしようということで、衆議一決。

何度もやったことがある、市役所の広報室の会議室にメディアを集め、記事にしてもらうよう

働きかけをしようということで、今夕のZoom会議は20分少々で終った。

問題提起したIさんが明日までに記者会見する原文を作り、メールで議論し、火曜日までにまとめ

水曜日メディアを呼んで、記事にするよう要請するという手順が20分くらいで決まった。

集まらなくても、やれるじゃないかと皆が確認、納得。

数日前のこと

「郵便局に行ってきて」とカミさんに言われたが、それだけではと思い

海岸を歩き、墓参りして来ようと思い、出かけた。

海岸遊歩道を歩いていたら、何かをくわえて食べている海鵜がいて

しばらく眺めていた。

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海岸通りを端まで歩いた。

通りの最後には下のような表示がある。

表示は10mおきにつけられている。

この日スタートしたのは我が家の裏なので、No30あたりか。

No144

No144からUターンし、最初の信号を渡り、墓のある浄林寺へ。

お寺の周りは緑がいっぱい。

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お寺の裏に墓地を求め、郷里の倉敷の墓に埋葬していた息子を連れてきて9年。

歩いて20分で行けるところに息子は来て、大学、高校の仲間や短い期間だったが

一緒に働いた同期の仲間たちが折をみて参ってくれていて、とてもうれしい。

この墓は、我々夫婦が入れば終わってしまう墓。

下の写真は、遠路相模原から貴重な休みを使って時々墓参りに来てくれる大学の

仲間だったKくんが車で来てくれたとき置いて行ってくれたノンアルコールビール。

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墓前では家族の近況、仲間の近況を息子に話した。

そのあと、墓から歩いて3分のところにある息子の卒業した中学校に寄った。

門扉が閉っていて中には入れなかったが、門扉の近くにあるプールを眺めた。

中学時代、水泳部でこのプールで練習していたのだと、あらためて思いながら。

帰り道、カミさんに頼まれていた郵便局に寄って帰ってきた。

2020年5月24日 (日)

「食品ロスを減らす」

何度も書いたNHKラジオの「実践ビジネス英語」講座。

今月のテーマは「食品ロスを減らす」と「AIがもたらす新たな可能性」

ここでは前半の放送「食品ロスを減らす」で出た話題を紹介。

食品ロスが深刻な問題であることが登場人物の間で議論された。

 ・アメリカは世界で最も裕福な国で、最大の食品輸出国であるが

  国内では4000万人を超えるアメリカ人が飢えの問題に直面している。

 ・一方、アメリカでは食べ物の20%という途方もない量が、結局はゴミ箱行きに

  なっている。その量の廃棄食品で20億人が食べていける。

 ・会話の中ではこんな話題も出ていた。

  「フィンランドではスーパーマーケットで”ハッピーアワー キャンペーン”と称し、

  数時間後の真夜中に消費期限となる数百品目の大幅な値下げを行い、午後9時から

  60%値下げされる」

 ・登場人物の中の日本人が「日本は世界最大の食品輸入国のひとつ。日本の

  食料自給率はわずか40%。日本は1年間で5800万トンの食料を輸入している一方

  3000万トンの食料を破棄している。余剰食糧はすべて、処分の過程で温室効果ガスを

  発生させ、気候変動の一因になっている」

  「日本の食品ロスの多くは消費期限が切れてスーパーマーケットやコンビニから

  返品されたもの。消費者も冷蔵庫の中の食品を見て、期限が過ぎた食品は捨てる」 

 ・アメリカでの食品ロスの主な要因は、レストランの盛りつけ量が非常に多いことと

  消費者が食品を買いすぎたり、料理を作りすぎたりすること。また大きすぎる

  パッケージや多すぎる盛りつけが食品ロスにつながっている。

  「使用期限」「販売期限」「消費期限」「推奨期限」「賞味期限」といった表示の

  意味があいまいで、まったく問題なく食べられる食品を人々は捨てている。

納得とうなずきながら聴いた話ばかり。

ボクが近くのスーパーに買い物に行くのは主に夕方。値下げされている食品をねらって。

また、アメリカに行ったとき、レストランでの盛りつけの多さに圧倒され、食べる前

「こりゃ、とても食べ切れない」と思ったことが、たびたびあった。

「食品ロス」何とかしなきゃならない問題だが、世の中全体が豊かになった中、容易ではない。

2020年5月18日 (月)

積年の思い、前に進む予感

積年の思いは、何度かブログに書いた我が町、横須賀で犯罪被害者支援条例を創設すること。

思いの根っこにあるのは、1995年無謀運転のトラックに当時23歳だった息子を殺されたこと。

振り返れば、市に条例制定を求めて働きかけをはじめて4年半になる。

最初に行ったのは15年12月、市議会の生活環境常任委員会で行った陳述

結果は「条例制定不要」で、残念ながら、審査は終了。

以来、4年半、諦めることなく、いろいろな手立てでリベンジを繰り返した。

17年10月には市長の上地さんに会い、条例制定の必要性を直接訴えた

市長との面談を取り計らって下さったのは、42名いる横須賀市議会議員の中で最も信頼している

青木哲正さんだった。

先週水曜日、青木さんに会うために議会事務所に行った。

打ち合わせの用件は、今後の条例制定の進め方について。

青木さんの思いは、以前から聞いていた思いと変わらず、今年12月に条例制定を目指すこと。

加えて、そのため、6月に議員を中心とした条例制定準備委員会を設ける予定とのことだった。

準備委員会を設置するにあたりということで以下の要請があった。

委員会のメンバーは犯罪被害者に対する知識が、自分がそうであったと同様乏しい。

そのため、メンバーが決まったら被害者数名の方から話を聴く機会を持ちたいので協力して欲しい。

話を聴き、実情を理解した上で被害者の心情に少しでも寄り添った条例になるよう心を尽くしたい

とのことだった。

まさに願ったり叶ったりということで、早速候補として適切な方おふたりに要請してみますということで

この日の打ち合わせは終わった。

何としても条例制定を、と思いはじめて、5年。

紆余曲折はあったものの、今度こそ、光明が見えはじめたと予感した打ち合わせであった。

これから信頼して頼めそうな方、おふたりにお願いしようと思っている。

条例が対象とする犯罪被害者は、交通事故犯罪に加えて凶悪犯罪、それに数が最も多い性犯罪を

視野に入れて進めて行きたいと思っている。

きっと青木議員の思いが込められた被害者の視点に立った条例が制定されるものと期待している。

2020年5月17日 (日)

オーストラリアの思い出(番外編)

前回の③で終わろうと思った「オーストラリアの思い出」

これこそ最後と思い、もうひとつ。

それは、大変お世話になった元富士通の社長で、4年前にお亡くなりになった

秋草 直之さんのこと。

書きだしたら、思い出すことはいっぱいある。

亡くなられた翌月開催された「お別れ会」のブログが見つかった。

秋草さんはあまり喋られるタイプではなかった。

たぶん多くの者が少ない発言から、その真意を探っていたと思う。

ときに「まさに」と言い当てた言葉もあった。

今でも覚えているのは「書記さん(職場の女性)に家で女房に期待しても

やってもらえないことは期待するな」

前のブログで書いたが、秋草さんが大好きだったシドニーに部長時代に出張で

来られたときの思い出もいろいろある。

ブリスベーンに同行したときには、こんなこともあった。

昼食はブリスベーン支店長の招待、ワインを飲んで事務所に帰り、支店長室で

話の続きを支店長から聴いていたときワインの酔いが回ってきて、支店長の机の前に

座ったまま、コクリコクリ。

支店長の名前は忘れたが、彼と目配せし「しばらく休戦」と。

お酒ということでは、昔いたシドニー事務所の屋上で何かの催しでみんなでパーティーを

やったことがあった。

時期は真夏の2月ころ。

ちょうど秋草さんが出張で来られたときだった。

お酒が入り、事務所の連中が次々に秋草さんに挨拶しにきた。

そのとき秋草さんがボクに言ったことばを覚えている。

「まるで業だね」暑さと英語で思わず出た言葉だった。

こんな発言も覚えている。

富士通ニュージーランド支店にも一度行ってみたいと言われ

一緒にオークランドに行く飛行機の中での発言。

スチュワーデスを見て「彼らの顔は動物で言えば、ラクダに似てるよね」

たしかに、そう言われればと思ったことも思い出す。

駐在していたころ出張で来られた折には、シドニーの歓楽街、新宿の歌舞伎町の

ような街、キングスクロスにも毎回のように一緒に行っていた。

英語を一日聴いたあと「お疲れでしょう。食事しにキンクロに行きますか」と

お誘いしたら毎回「そうだねぇ」と。

こんなことばかりでなく、たびたび我が家にも来ていただき、夕食をご一緒したのも

いい思い出である。

長々と書いた「オーストラリアの思い出」これで終わりとします。

2020年5月13日 (水)

オーストラリアの思い出 ③

オーストラリアの思い出の最後はシドニーに住んだ3年間、我が家に来ていただいた

方々について。

45年以上前のこと、記憶は当然薄れているが、思い出しながら。

招いたのは、富士通オーストラリアの仲間たち、それよりずっと多かったのは

東京から短期出張で来た人たち。

相当な回数と訪問者だった。

駐在がスタートしたのは、ボクが31歳、カミさん27歳。

子どもたちふたりが3歳と1歳。

人を招くことが好きだったボクの思いを汲んで、ホントにカミさんがよくやってくれた

と今更ながら思う。

よく覚えているのは、駐在前上司であり、後年、富士通の社長になった秋草さん。

秋草さんには1軒目の家、2軒目の家、どちらにも来ていただいた。

多くの出張者の人たち、思ったのは、家族が来る前3カ月、自分がそうであったように

特に週末は多くの店が閉まるため、当時はコンビニ的な店があるわけでなく、車で

移動もできないし、きっと食事に困っているのではと思い、頻繁にお呼びした。

午前中は食材を買いに、毎回シティのフィッシュマーケットに行っていた。

帰ってきてカミさんは準備をはじめ、ボクは夕方ホテルに迎えに行き、終わったあと

ホテルに送るというのがパターンだった。

ボクはやりたくてやっていたが、子供が小さかったカミさんは大変だったことと思う。

よくやってくれたものだと、あらためて感謝の念でいっぱい。

数日前、ブログに当時お招きしたひとりの方からコメントの書込みがあり

懐かしく、うれしく読ませていただいた。

初めての海外出張で花房さんの御宅にお邪魔しました。御子息と楽しくお話ししたのも

良い思い出です」

返事した。

「来ていただいたのは覚えています。そうですか、息子とお話していただき、

それを覚えていてくださる とてもうれしいです」 

帰国したあとも、出張で来たオーストラリアの仲間を横須賀のこの家に呼んだことが

度々あった。

お客様で忘れられないのは、メルボルンの最重要顧客だったビール会社

カールトン ユナイティドの情報処理部門の責任者だったジェフ ドーバー氏。

ジェフの思い出を4年前に書いたブログを見つけた。

使っているブログはキィワード検索できるのでありがたい。

ジェフ以外にも富士通オーストラリアの仲間たちが東京に出張できたとき

たびたび我が家に呼んだ。

ホテルからのルート、電車の乗り換えほか書いた紙を渡して説明していたが、

毎回のように、来ている途中電話がかかってきて「わからない、今ここ」

説明し、やっとたどり着いた我が家の最寄り駅まで迎えに行っていた。

いっぱい色々あったが、今となればすべてが懐かしい良い思い出。

最後にもう1度、ボクのやりたかったことに長い間付き合ってくれたカミさんには

感謝しかない。

2020年5月10日 (日)

オーストラリアの思い出 ②

1年半過ごした家を引越した。

引越した家をどうやって見つけたか覚えていないが、おそらく不動産屋に行ったのだろう。

住んだ家はチャッウッドという地区でショッピングほか生活するには便利な場所だった。

この家の写真は残っていない。

前庭と大きな裏庭があり、リビングルーム、キッチン、ベッドルーム2つの一般的な家だった。

家賃は1軒目の家と変わらず月10万円くらい。

覚えているのは、新しく新聞の購読をはじめたこと。

新聞は分厚く、丸くまるめたものを車で庭に投げ込んでくる。

日曜日は特に分厚く、ザーッと眺める程度だった。

裏庭で持って行ったラジオを苦労して合わせながら日本のニュースを聴いていたのを思い出す。

この家でも隣に住む家族にはいろいろ教えてもらい、助けてもらった。

ここに移って変わったのは、上の息子が小学校に入学前に通えるプレスクールに通い

はじめたこと。

通園するために乗る幼稚園のバスはうちから歩いて5分くらいのところに停まり、連れて行き

乗せていた。

バスにみんなで乗って行って、ひとりでずっと英語、5歳の息子にとっては大変なプレッシャー

だったことだったろう。

この家に住んでよく覚えているのは、家の前に停めていた車に他の車がぶつかってきたこと。

音を聞いて、よく面倒をみてくださっていた隣の奥さんが飛び出して見つけ、ぶつけた者と話し

住所、名前をメモしてくださっていて、メモを渡され、状況を説明してくださった。

大きな激しい傷はついていなかった。バックしていてガシャっとぶつかった感じだった。

すぐぶつけた者の家を訪ね、話をするが、こちらの英語力不足のため、話をはぐらしてきた。

怒りは収まらず、前のブログに書いたポールに相談。

ポールは「許せない!」と一緒に怒ってくれ、何故か警察ではなく、簡易裁判所に申立てしようと言い

ポールとシティにあった裁判所に行って申立てをした。

申立て手続きはポールがやってくれた。

手続きはポールがやってくれても裁判所に出頭し説明、弁明は当然ボクがやる必要がある。

ポールと一緒に説明内容を準備し、練習した。

法廷では準備した書面を読んだ。

行ってまだ1年半、英語が心許ない時期。

細かくは覚えていないが、証言台に立って証言したのは覚えている。

判事から質問が出たかどうか、質問にどう対応したかはまったく覚えていない。

訴えた相手が来ていたかどうか、何か反論してきたかどうか、最後裁きがどうであったか

補償するよう裁判所から言渡しがあったかどうか、45年前のことでまったく覚えていない。

ただ、これは1年半あの家に住んでいる間に経験した最も記憶に残る出来事であった。

書きながら、同じ歳のポール、どうしてるだろうと思った。

最後に会ったのは、10年以上前、我が家に訪ねてきてくれたとき。

元気だろうか、たぶん今も独身ではなかろうか。

心配だが、住所もメモしてないので手紙を出すことができないし、電話番号、メールアドレスも

わからない。

元気であることを、ただただ祈るばかり。

2020年5月 9日 (土)

オーストラリアの思い出 ①

先ず、最初に住んでいた家の話から。

1974年のことだから、もう46年も前の話。

「英語では苦労した ③」でアップした写真の家に住んでいた31~2歳のころのこと。

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ごく普通の住宅街にあったごく普通の家だった。

この写真は、5年くらい前、カミさんと娘、孫たち5人でセンチメンタル

ジャーニーと称し、オーストラリアへ旅したとき、借りたレンタカーで

シドニーでは、先ず、住んだ2軒の家に行こうと言い最初に行った家。

2軒回ったあとは、これまたどうしても行きたいと、子供たちが通った

幼稚園に行った。

当時何かと面倒をみてくださった先生は忘れもしない先生Miss May。

家の家賃は週65ドル。当時オーストラリアドルは1ドル350円くらいだったので

22,000円くらい。月10万円弱だった。

近くには日本人は誰も住んでいなく、珍しさもあり、また子供たちが小さかったこともあり

世話好きな近所の人たちが何かと助けてくださった。

すぐ裏にはゴルフコースがあり、家から歩いて80mくらいのところには

何番ホールか覚えてないが、グリーンがあり、よくプレーしていた人を見に行っていた。

気軽にできるクラブなので、年配の夫婦がよくグリーン上でパターをしているのを見ていた。

見るたびに「いいなぁ、こういう風に歳を重ねたいなぁ」と思った。

このゴルフコースにはいろいろ思い出がある。

会社の事務所からも近く、夏はよく仲の良かった会社の同僚の駐在員のマークとヒロ3人で

朝一番で行きハーフコース プレーし、そのまま会社に行ったことが何度もあった。

プレー代は3ドルくらいだった。

今でも覚えている。

打ち下ろしの下がまったく見えないホールで「ナイスショット!」と言い、下のグリーンに

行ったらボールがないことが何度もあった。

近くの子供たちが打ってくるのを待っていてグリーンに落ちたボールを拾って持って行くんだ

ということに、しばらくしたら気がついた。

家から3分ほど下れば湾の入り江というとっても良い環境だった。

大家が南アフリカから帰国するので出るようにと言われ、想い出いっぱいだった

1年半くらい住んだこの家を出て、次に探した同じくらいの家賃の家に引越した。

昨夜食べた食事は思い出せないが、45年も前のことが浮かんでくる人間の頭は

不思議だと思いながら書いている(笑)

2020年5月 7日 (木)

英語では苦労した ④

脱線続きだったが本題の「英語では苦労した」に戻って。

英語では駐在した直後から悪戦苦闘。

受験勉強したことあまり役に立たないと会社に行くたび思った。

だが、実はそうでないことに気がついたこともあった。

オーストラリアは移民が多い。

英語に無縁の国からも多くの人たちが来ていた。

ボク含めてそういう人たちに無料で国が英語を教えてくれる制度があった。 

それを聞いて、即教室に通った

会社が終わったあと6時から名前を思い出さないが公共の施設で行われた

無料の講習会だった。 

初めて通いはじめた生徒は先生が指名し自己紹介するのが慣例だった。

当然日本人もいた。

自己紹介で日本人は必ず「英語はできません」と言う。

だが、文法を教わるときは日本人は問題ない。

多くいたイタリア人ほかは「英語はできます」と言い、それなりにしゃべる。

ところが、文法になると日本人はダントツにリード。

当時、八百屋はギリシア人が多く、魚屋はイタリア人が多いと言われていた。

彼らは文法などどうでもよいが、店を切り回すために英語は客の対応必須。

会社で必要だから、買い物に必要だからとは切実さが違う。

会社の話に戻して。

3カ月は家族がこない。家に帰ってもひとりですることがない。

やっぱり英語をやらなければ、先ずは仕事で使うことばを英語で覚えなければと思い

英文マニュアルと日本語マニュアルを見比べながら自分なりの単語を作った。

「ああ、英語ではこういう単語か、こう表現するのか」そんなことをたくさん覚えた。

会社に行って意識したのは「しゃべるのはその場出てきた言葉をつなげればいい、

読むことは受験勉強した語彙がそれなりにある。あとは書くことだ。ちゃんと書ける

ようになれば、しゃべりも聞くもついてくるはず」との自分なりの結論にたどりついた。

それからやったことは、会社に行けば英語だらけ 掲示板の各種案内文、回ってくる書類文書

とにかく言い回し、表現を覚えようとノートに書いた。

時間はかかったが、書くということがそれなりに出来るようになってきて、今から思えば

書くをきっかけに英語がもっと身近になり、しゃべる、聞くにつながっていったという感じを

持ったのが着任して1年経ったころだったろう。

同時に英語が好きになった。

そして今、定年直後に聴きはじめたNHKラジオ「実践ビジネス英語」を聴くのが楽しみで

放送聴けるときには再放送で同じ放送を1日3回繰り返し聴いている。

このあたりで「英語では苦労した」は終わりにしたい。

書いていて、45年駐在していたころのことを色々思い出したので記憶が消えて

しまわないうち 、折を見てブログに書いて残しておきたいと思った。

2020年5月 5日 (火)

好天に誘われ

年がら年中、連休のボクにはゴールデンウイークは無縁。

そのGWも明日で終わり。

天気が良いので、裏の海岸遊歩道を歩いた。

当然のことながら、平素より釣り人は多い。

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途中、子ども3人の家族に会った。

かき氷作り機を持って来ていて、おしゃべりしていたらお兄ちゃんが、どうぞと言い

かき氷をごちそうしてくれた。

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そのあと、子供たちはローラボード、お父さんは釣りの続き。

お父さんの釣果はすごかった。

大きなタコ以外にイシモチやメバル。

お母さん「今夜はタコ焼きとタコのお刺身、それにメバルの煮つけ」

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遊歩道の終わりまで歩いて行くと、壁に向かってクラリネットを吹いている

女性に会った。

「この場所、あまり人が通らないので練習するにはいい場所」

しばらく、奏でる「アベマリア」を聴かせていただいた。

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ステキな出会いがいろいろあった海岸遊歩道を通り抜けて、カミサンから

「帰りに、お願い」と頼まれていた吉野家へ。

割引券がもらえて、牛丼並2つで652円。

もうひとつ言われていた「明日朝食べるケンタ買ってきて」

ケンタは6時で終わり、こちらはダメだった。

英語では苦労した ③

上司に希望を申し出て、31歳のとき行かせてもらったオーストラリア。

とにかく、英語では苦労した。

今でも忘れられないことがある。

赴任し、初めて会社に行った日だった。

ひとりの仲間が来て、困ってると話しかけてきた。

話を聞くもののよくわからないが、問題が起きて自分では解決できないと言っている

ことは解った。問題の内容も大まかな理解はできた。

ソフトウエアの障害と呼ばれる問題ではないかと思った。

手元にあった障害レポートを見たら、同じと思われる問題が報告されていて、対処方法が

書いてあった。

だが、彼にうまく伝えることができない。

きっと先に駐在していた仲間に助けてもらったのだろう、何とか伝わった。

当時、会社の規定では駐在員は3ヵ月経たないと家族は呼べなかった。

31歳、カミさんと当時3歳の男の子、1歳の女の子を日本に置いて3ヵ月ひとり、

とてもとても耐えられなかったが、どうしようもなかった。

当時はもちろんネットはない。電話はべらぼうに高かったが、どうしてもカミさんの

声を聴きたくなったときは電話をかけるしかなかった。

家は前任者が借りていた家をそのまま借りた。

赴任する前住んでいた公団賃貸住宅の2DKとは雲泥の差。

写真一番右がベッドルーム、一番左がリビングルームだった。

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この家のオーナ一は外務省に勤めていて南アフリカに赴任中で空いた家を貸していた。

貸した家は不動産屋が仲介し、オーナーはそのまま貸し、食器、ナイフ、フォークすべて

そのまま、家財もすべて置いたまま。

家の裏には手入れがされていない大きな庭があり、木々が茂ってうっそうとしていた。

ここには1年半くらい住んだが、怖くて庭の奥まで一度も行けなかった。

庭を出たところで50cm以上あるオオトカゲを見つけ、びっくりしたこともあった。

カミさんたちが来る前、仲間と一緒に映画「エクソシスト」を観に行ったことがある。

その夜は怖くて寝られなかったのを覚えている。

脇道にそれたついでに。

3カ月経っていよいよカミさん、子供たちが来ることになり、家族をぜひ会社の仲間に

紹介したいと思い、駐在員の誰もやったことがなかったが、周りの仲間に助けてもらいながら

英語で招待状を作り、事務所の中の10人くらいに渡した。

家族が来て2週間後くらいだった。

当時、ボク31歳、カミさん27歳、子供たち1歳と3歳。

よくカミさんが許してくれたと思う。

いまだにあの時は大変だったと言う。

当然初めてのことなのでわからないことだらけ。

先ず、飲むビール、ワインをどのように冷やしておけばよいか、冷蔵庫にはとても

入らない。

会社で仲間に聞くと即「氷買ってきて、バスタブ」と教えてくれ、なるほどなるほど。

時期は9月、来た人たちは皆コートを着てきた。

仲間が即アドバイス「女性の着ているコートを後ろからとって受け取り別の部屋へ」

着いて間もないカミさんはものすごく頑張ってくれた。

寿司ほか日本食を4品用意してくれて、リビングの4隅に小さなテーブルを置き並べた。

まだまだ英語がモタモタの時期だったが、ボクはすべてのカップルに話しかけ、せいいっぱい

もてなした。

全員が帰ったのは12時過ぎていた。

2人とも疲労困憊。

終わったあとの写真を撮っておけばよかったと後で思った。

あれから45年以上経った。

みんなどうしてるだろうと書きながら思った。

また長くなりました。

いぜんとして「英語では苦労した」にたどり着かず(笑)

2020年5月 4日 (月)

英語では苦労した ②

前回①では話が脱線したので「英語では苦労した」に戻して。

富士通に中途入社し、コンピュータのシステム エンジニアになることを目指したが

周りの連中は自分よりでき、頑張らなければと思うものの、落ち込むことが

多かった27歳ころだった。

元来の性格であるようだが「であれば、何か仲間とは違う道を」と思い、入社4年目

くらいだったろうか、そのころ富士通があちこちの国ではじめたコンピュータ

ビジネスに関わりたいと思いはじめた。

当時、富士通は海外ビジネスを前回①で書いたようにいろんな国ではじめた。

中でも、関わりたいと強く希望したのはオーストラリアだった。

オーストラリアに関われば、英語が出来るようになると思い、当時の課長、部長に

「富士通オーストラリアに行かせて欲しい」と直訴した。

ふたりから「英語は大丈夫か?」と聞かれ、即座に「受験勉強しましたから

大丈夫です」と答えた。

だが、勉強したのは、読み書き、文法だけで聴いたり、話したりした経験は皆無。

上司は本当に大丈夫とは思わなかったようで「駐在する前にとにかくスキルアップ

するように」と強く言われた。

同時に、当時所属したSE部門には2人海外から来て職場で働いていた社員がいて

上司の部長から「二人の間に席を移して座り、ふたりとは英語でしゃべれ」と言われた。

指示通り席を移し、ふたりの間に座った。

が、ふたりとも日本語が問題ない。

そのうちのひとりとは今も家族ぐるみで付き合っている。

ボクが英語をしゃべろうとしてもふたりからは日本語が返ってきて、部長の思い通り

にはならなかった。

そのような状態のまま駐在し、富士通オーストラリアでの仕事、シドニーでの暮らしが

はじまった。1974年6月のこと。

またまた前置きが長くなり、そろそろ本題の「英語では苦労した」の話へ。

当時は飛行機が小さくて、羽田からシドニーまでは一気には飛べなかった。

途中、真夜中にマニラで停まり、給油。

お客は全員降ろされ、マニラ空港で1時間以上待たされた。

初めて踏んだ海外の地。

若かったし、興奮しながら、マニラの空港内をぶらぶら。

忘れもしない、カウンターバーのある店があり、立ち寄った。

飲むものを英語で注文しなけばならない。

何を注文したかは覚えてないが、海外で外国の人と初めて言葉を交わした

記念する日だった。

で、シドニーに着くと「ポールの夢をみた」で書いた大男ポール レティがホテルに現れ、

31歳にして初めて英語でやり取りすることになり、以降英語で苦労し奮闘することになる。

2020年5月 3日 (日)

英語では苦労した ①

希望を出して、オーストラリアに駐在したのは1974年から3年間。

その少々前、勤めていた富士通では海外に目を向けはじめた。

会社は「これからは海外でコンピュータービジネス」と思いはじめた時期

だったのだろう。

手始めにスタートしたのは、ニューヨークに駐在員事務所を設けたり、

それぞれにきっかけがあったのであろう、フィリピン、ブラジル、

ユーゴスラビア、ブルガリア、スペイン、オーストラリアなどで

手探りでビジネスをはじめた。

1966年、大学を卒業し、興和という会社に就職した。

当時、神戸で4人で住んでいた下宿で、怠惰な生活をしていて4人ともあまり

学校に行ってなかった。

そんなある日、大学に行くと就職の募集がはじまったいた。

名古屋に本社がある興和という会社が交通費を支給するという就職説明会の案内を見て

行ったことのない名古屋なので、下宿の仲間とふたりで行くことにした。

興和は名古屋では財閥で、キャベジンやコルゲンほか医薬品の製造、販売に加え

紡績、商社など幅広くやっている企業。

入社試験を受けたらふたりとも合格。

親父に連絡したら「銀行か商社でないとダメだと」しかられ、大学の教務課に行き

やめたいと言ったら「ダメだ。そんなことしたら来年から採用募集がこなくなる」と

言われ、入社を決めた。

興和には4年間勤め、福岡で勤務。

寮に住み、寮は福岡の繁華街、中洲の近くにあり、若いこの時期いろいろあった。

50年以上前の話。

世の中、コンピューターが話題になりはじめたころだった。

同時に、先々このままでいいのかと思い始めた時期でもあった。

これからはコンピューターではと思うようになったそのころ、福岡の寮で読んだ新聞で

富士通がコンピューター エンジニア要員を応募していることを知り、福岡の営業所に

面接を受けに行った。1969年のこと。

面接を受け、入社を希望するなら東京の本社に行って面接を受けるように言われ

生まれてはじめて東京に行くことになった。

忘れもしない、大手町の本社の1階に置いてあった大きなコンピューターを初めて見た。

面接を受け、システム エンジニア(SE)になりたいとの希望を強く言ったのを

今でもはっきり覚えている。

後日採用通知が届き、入社が認められた。

1970年に入社、SE向けの教育がはじまった。

40人くらいがいたが、大半は社内配転者。

中途入社は、ボクともうひとりS君だけだった。

社内配転者は全員、それぞれの職場でコンピュターを使っていて、当時会社が増員を

目指していたSEの配転希望者ばかり。

当然コンピューターは解っていて、知識のないのはSくんとボクだけ。

1カ月くらいの教育が終了し、全員SEの職場に配属された。

忘れもしない、配属されて間もなく「行ってこい」と言い行かされた保土谷化学という

お客様で言われることが理解できず、大変だったことを思い出す。

当時、大変な中で毎日のように寮に帰ると思い出していたのは、お付き合いしていた

門司に住む女性Tさんのこと。

そんな中、母親から見合いするようにと言われ、帰ってくるようにとの連絡があり、

帰省してカミさんと初めて会ったのが1970年。

完全に外れてしまって「英語では苦労した」にたどり着かない。

これについては②以降で。

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