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2020年4月

2020年4月26日 (日)

ポールの夢をみた

どうしてなのか、45年くらい前初めて会い、大変仲の良かったシドニーに住む

ポール レティが夢に出てきた。

起きて、一瞬ポールに何かあったのではと思ったが連絡の取りようがない。

彼とは思い出がいっぱいある。

歳はほぼ同じ、1974年から3年間駐在していた富士通オーストラリアの仲間。

最初の出会いは、駐在がスタートしたシドニーに着いた日、1974年6月21日の朝。

空港には駐在員が迎えに来てくれて、出張者の定宿だったモーテルまで連れて

行ってくれた。

夜行便でよく眠れなく、シャワーを浴びて、さあ寝ようと思っていたら

ドアをノックする音が。

誰だろうと思い、出てみると大男が立っていた。

この男がポールだった。

ポールは色々話すが、ところどころしか理解できない。

どうも自分の担当するお客様で問題があり解決できないので一緒に来てくれ

ということのようだ、とおおよそわかった。

おいおいという感じだったが、ポールについて彼の車でDPAというお客様のところへ。

当時、オーストラリアで無名の富士通のコンピューターを買ってくれるのは、

ほとんどが計算センターだった。

セールスが以前他のメーカーにいたとき売ったマシンをリプレースしたお客様が

多かった。

セールスは売ればコミッションが入ってくるのでリプレースは一番手っ取り早い。

セールスマンの乗る車がグレードアップするのを何度も見た。

ポールに話を戻して。

初めて会って、何とか問題が解決し、ホテルに送り戻してくれる途中

ミルクバーと呼ぶコーヒや軽食が飲み食いできる店に寄った。

ポールがいろいろ話す中「ここではファースト ネームでしか呼び合わないよ。

ファースネームをつけようと言い出し「フルネームは何?」に対し

「Hanafusa Takanori」と答えた。

応えてポール「Takanoriか」それじゃと長すぎと言い「Takaはオーストラリアでは

食べ物のこと(スペルはたしかtucker。弁当箱はtucker box)であまりよくない。

Takにしよう」

ということで、到着した日に名前がTakに決まった。

オーストラリア人独特の言葉、表現は周りの仲間が嬉々として教えてくれた。

今でも覚えているのは、

Bloody good tucker mateーすげー、美味い

No sweat diggerー心配するな

Should be right mateーうまくいくよ

Bloody hellーとんでもない

駐在後、出張で行ったときポールの家には毎回のように泊めてもらった。

ホテル代の半分くらいポールに渡し、双方winwin

当時は精算するとき宿泊代の領収書を添付する必要がなかった。

今でもシドニー空港からポールの家には車であれば行けると思う。

チッペンデールというサバーブズだった。

泊まったときには、夜更かしのポールが毎晩遅くコーヒーを飲みに行くのに

付き合わされた。

ポールはくどい。しゃべるのがとにかく好き。

「ポール、もう寝よう」と何度言ったことか。

ポールが言ったこんなことも覚えている。

「オーストラリアに移民して、富士通オーストラリアに雇ってもらったら」と言い

ポールと一緒に不動産屋を回ったこともあった。

カミさんに話したら「冗談じゃない!」と一蹴された。

もし、そうしてたら、今ころプール付きの家に息子も入れて4人でシドニーに

住んでいたのでは」とひとりで何度も思った。

こんなこともあった。

夜、ポールの友だちがやってきて、押入れの引き出しの奥からポールが

黒い塊を出してきた。

ナイフで細かくきざみ、それを病人が飲むフラスコのようなものに入れて水を加え、

それを回し飲みした。

回ってきたものを恐る恐る受け取ったら「大丈夫、Tak、ハッシシ(大麻)だよ。

1回飲んだくらいだと何ともならないよ」と言われ、こわごわ飲んだことを

40年以上経ったいまも、あの時の情景含め、まざまざと頭に浮かんでくる。

ポールが出張で東京に来て我が家に呼んだとき、娘にリカちゃん人形を

買ってきてくれたこともあった。

どうしてるだろう、あのころは独身で不摂生だったポール、元気かなぁ。

だったら、いいんだけど。

書いていたら他にも思い出した会社の仲間がいる。

ブライアン ジョンソン。

理くっつぽい男だった。

富士通の悪口をよく言っていた。

ブライアンから一度「うちでパーティやるから来いよ」と誘われた。

夏で自宅のプールサイドでのパーティだった。

たしかパンチほかアルコールがふるまわられ、興が高まってくると来ていた

男女20人くらいが真っ裸になりだした。

ブライアンが「Tak、脱げよ」と言い、恥ずかしかったが思い切って。

そのあとは皆、プールに飛び込みドンちゃん騒ぎだったことを思い出す。

仲が良かった仲間は他にもいろいろいた。

思い出すのは、クリス ヘンショウ。

彼は小さな部屋をもらっていたのでマネジャーだったのだろう。

部屋をのぞくと、いつもクロスワードパズルをやっていた。

「毎日、帰るまでに3つは解く」と言っていたのを思い出す。

長くなっているが、もう少々。

名前を忘れたがボスから「メルボルンで困っているみたいなので行ってくれ」

と言われたことがある。

メルボルンには日本人はいなかった。

きっと、当時誤訳が多かったマニュアルではと思い、日本語のマニュアルを

思いつくもの数冊持って行った。

問題は案の定、英文マニュアルのミスだった。

よくぞ、こんなコンピュータをこんなマニュアルを付けて売っていたんだと

今更ながら思う。

問題が解決したあと「さあ、昼飯」と言い、仲間数人に誘われ、近くのパブへ。

みんな酒を飲んでスヌーカー(玉突き)

一緒にやり、いつものことのようだったが、2時間くらいかけて昼休みが終わり

事務所に戻った。  

帰る前に支店長に報告しなければと思い、ヒュー シンプソンという、

前に会ったことがあるヒューのオフィスに行って報告した。

ヒューに「一日中英語で疲れた」と言ったら、ヒューが「お前の英語を聞いて

俺も疲れた」と笑いながら言ったことを思い出す。

これも思い出した。

3年間の任期終了まじかになり、この国が好きになった、移民できないものかと

秘かに思い、シティにある移民局に話を聞くために行った。

係官との会話は鮮明に覚えている。

曰く「仕事は何だ」「コンピュターエンジニア」と答えた。

係官曰く「この国はまだまだコンピュターエンジニアは少ない。

会社の上司の推薦状を持ってこい。考える」という感じだった。

帰ってカミさんに話したら、またまた「何を考えているの!冗談じゃない!

来月には帰るよ」

野望はついえた。

何度も思った。

1回しかない人生、もしカミさんが了解してくれていたら、きっとやっただろうと。

希望を上司に話し、望んで駐在したのは31歳から3年間。

当時の富士通オーストラリア仲間のほとんどは70歳を超えている。

ぜひ、みんなに会いたい。

年末には毎年OB会をやっているようなので、カミさんの体調が大丈夫だと

ぜひ今年は夫婦で参加して旧交を温めたい。

長々と書いた思い出話にお付き合いいただきまして、ありがとうございました。

2020年4月20日 (月)

どれも思い出いっぱい ③

最後にもうひとつ、ボクのベッド脇に張ってあるものの紹介。

今回は前回の②で紹介した左側のものについて。

Bed-pic_20200420181301

左上は18年12月9日の沖縄タイムスに掲載された姉孫の中学校総合文化祭記事。

姉孫、右から4人目。

その右は2006年にカミサンと行ったオランダ ハーグのマウリッツハイス美術館で買った

1600年代のハーグの町を描いた絵葉書。

美術館に行ったことはブログにも書いた。

下左は2013年7月、イギリス スコットランドを旅したときに泊まった

ベッド&ブレックファーストの近くのホームセンターで見つけ、気に入り買った。

「定年、車輪はいぜん回っているがハムスターはスローダウン」

下右の手書きは5年前ボクの誕生日にカミサン、娘、孫たち4人が書いてくれた寄書き。

真ん中にボクの顔。

妹孫「じいじへ。いつもいろいろしてくれたり、つれていってくれて、ありがとう」

姉孫「じいじ 大好き!いつもありがとう!元気でいてね」

小さな紙がついていた。

小学校中学年のころ書いたものかな。

それには、

 「じいじがかってくれるもの かぎがついているちょ金ばこ 色は黒や青やむらさき色

  じいじ、ぜったいかってね!!」

 「じいじは50だいにみえるよ←これはよけいだね」 

娘「いつまでも若々しく、元気じーじでいてね!甘いもの食べすぎに注意。ほどほどに」

カミサン「いつも買物ありがとう」

最後に一番下の赤い紙。

これは時々行くマックの壁にかかっていた。

たぶん米軍基地のアメリカ人が書いたもの。

気にいって写した。何度も暗記しようと思い覚えたが、覚えても忘れるの繰り返し。

Meal is a family favourite.When we all gather around a table and take turns 

sharing our stories from the day.

食事は家族の楽しみ。みんなでテーブルを囲み、順番に今日のそれぞれの出来事をシェア。

With just a drop of imagination.The world can transform into a magical place and

anything is possible.

ほんのわずかの想像で、この世界は不思議な場所に変わり、何でもできる。

2020年4月16日 (木)

どれも思い出いっぱい ②

先日アップした記事「どれも思い出いっぱい」の続き。

ボクのベッドの横の壁にはってある諸々。

Bed-pic_20200416163601  

右の一番上は5年前の2015年3月21日、日本水泳連盟からもらった「泳力検定5級認定証」

この検定を受けたきっかけは知り合いの女性に勧められ、事前に彼女から指導を受けチャレンジ。

そのことをブログに書いている。

2枚目は2017年7月14日「英検2級合格証明書」

これも2次試験を受けたことをブログに書いている。

そのあと、準1級に2度チャレンジしたが、2度とも1次試験であえなく敗退。

孫たちがそれぞれ3級、4級に合格し、いずれは2級にチャレンジし、追いつかれることだろうが

ボクはもう英検準1級はあきらめ、8年以上聴いているNHKラジオの「実践ビジネス英語」だけで

いいと割り切った。

3枚目は2019年3月15日開催の横須賀市主催の講座「ヤト活・谷戸から横須賀の魅力を

学ぶ・歩く・語る」の修了証。

こちらもブログに書いている。

どれも、思い出深い。

2020年4月 9日 (木)

コロナ心得

以下、大学の1年先輩から届いたコロナ対策メール

慶應の先端研 遺伝子制御の佐谷秀行先生からの情報です

(佐谷先生は大学病院の副院長も務めています)

慶應でも院内感染が起こり、患者さんと知らぬうちに接触した医師や看護師にも

PCR陽性者が出たようです

またほとんどの感染患者さんは食事中に感染しているようです

佐谷先生がご自身でまとめられた感染防御マニュアルをイントラネットで公開されました

以下 注意事項

ウイルスが出てくるのは咳とか唾とか呼気

でも普通の呼気ではうつりません

これまでのほとんどの感染は

①感染者から咳やクシャミで散った飛沫を直接吸い込む

②飛沫が目に入る

③手指についたウイルスを食事と一緒に嚥下してしまう

という3つの経路で起こっています

感染にはウイルス粒子数として100万個ほど必要です

1回のくしゃみや咳や大声の会話で約200万個が飛び散ると考えられています

つまり感染者がマスクをしているとかなり防ぐことができます

なるべく鼻で息を吸いましょう

口呼吸で思い切りウイルスを肺の奥に吸い込むのはダメです

外出中は手で目を触らない 鼻を手でさわらない(鼻くそをほじるのはNG)

唇触るのもだめ 口に入れるのは論外

意外と難しいが 気にしていれば大丈夫です

人と集まって話をする時は マスク着用

食事は対面で食べない 話さない

食事に集中しましょう

会話は食事後にマスクして

家に帰ったら 即刻手を洗う

アルコールがあるなら 玄関ですぐに吹きかけて ドアノブを拭きましょう

咽頭からウイルスがなくなっても

便からはかなり長期間ウイルスが排出されるという報告があります

ノロウイルスの防御法と同じように対処を忘れずに。

感染防御のルールを再度整理します。

①マスクと眼鏡の着用

②手指の洗浄と消毒

③会食は対面ではせず1人で食事を短時間で済ませる

④外から帰宅時は先にシャワーを浴びてから食事

陽性患者さんの多くは 手指から口に入るか 食事の時に飛沫感染しているようです

以上を守って元気でいましょう

2020年4月 7日 (火)

懐かしい昔の仲間から届いた誕生日祝い

カナダのトロントに住む30年以上前からの知り合い、マイク シューから

昨日誕生日おめでとうの書込みがフェイスブックにあった。

ありがとうの返信を送るとともに

「30年くらい前、富士通オーストラリアの仲間と一緒にうちに来てくれたよね」と書いたら返事があり

「そう、あのとき一緒に行ったのは、たしかマーク、アリスター、カレンだった・・」

返事した「うん、たしかマーク、カレン・・だったかなあ、が他にもいた。お互い歳を重ねたから

仕方ない」

当時、日本の家にくることはないだろうと思い、海外から出張で来たたくさんの仲間を我が家に

招いた。

カミさんがよく許して、対応してくれたと思う。

娘は必死になって英語をしゃべっていたが、息子は「えっ、また外人来るの。出かけるんで

ご飯いらない」

一度メルボルンから来た女性、名前はたしかカレン プレスベリーだった、が訪ねて来たとき

「Tak、わたし、前もここ来たことある。今回2度目」と言われ驚くとともに、女性だったので

とっても恥ずかしかったことを覚えている。

「髪型変えたからわからなったのよ」と慰めてくれたが赤面の思いだった。

以来、ビジターノートを用意して、一言書いてもらい、全員の写真を撮って貼ることにした。

そのビジターノートも分厚くなり、時々懐かしくながめている。

泊っているホテルからの電車の乗り方、乗り換えを紙に書いて渡していたが、ほとんどのケース

途中でわからなくなり、電話がかかってきていた。

だが、訪ねて来てくれた人たちは皆、見たことのない日本人の家の中を見て、カミさん手作りの

料理を食べ、近くをぶらぶらみんなで歩き、ワイワイだべり、飲み、毎回楽しい時間を過ごした。

お返しに、と来てくれた人何人かが出張でオーストラリアに行った折に家に招いてくれた。

そのうちのひとりはメルボルンから来た富士通オーストラリアのお客さまだった。

夫婦で彼を箱根にも連れて行った。

すべてが今となれば、懐かしい楽しい思い出。

シドニーでは毎年富士通オーストラリアのOB会を開いているそうで、今年はカミサンの体調が

許せば、是非ふたりで行きたいと思っている。

2020年4月 6日 (月)

孫たち来訪

10年間いた沖縄を引き払い、姉孫の高校入学を機に東京へ戻ってきた娘一家。

横須賀行くと連絡があり、昼前、娘と孫たち駅で待ち合わせし、そのまま食事に。

行った店は息子の友だちのYくん紹介の店で以前にも何度か行ったことがあるイタリアンの店。

Img_2057

今春は孫たちは節目の年。

姉孫が東京の高校へ入学、妹孫が地元の中学校入学とふたりとも進級の春。

姉孫

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妹孫はじいじとナナちゃんに見せたいと言い、中学校の制服を着て来てくれた。

Img_2064

来る直前に家族で行った伊勢志摩で買ってきてくれたボクの誕生日祝いの

鳥羽のお土産持参できてくれた。

Img_2089

食事のあと、そのまま我が家へ。

妹孫が「じいじ、マスターマインドをやろうよ。わたしが応える人」と言い

来ると必ずやるマスターマインド ゲームに今回もはまった。

5時前になり「さあ帰ろう。その前に自転車」と言い、我が家ではほとんど乗ることのない

自転車を娘が「うちで使いたい」と言い、陸送会社に運搬の手配をし「さあ、これで

やりたかったことできた」と。

駅まで歩き、3人が乗る電車を見送り、途中図書館に寄って帰ってきた。

1時間少々で行き来できる場所に越してきたので、頻繁に会えることがとってもうれしい。

今週予定されている中学校、高校の入学式はコロナ騒ぎで開催されても参加できるのは

両親のみということで、こちらは大変残念。

2020年4月 3日 (金)

やっとたどり着いた遠かった道のり

一昨日、横須賀市議会事務所に市議の青木哲正さんを訪ね、宿願の

「犯罪被害者支援条例」について今後の進め方を議論した。

青木さんは40人いる横須賀市議会で副議長を務め、市議の中で最も信頼する方。

横須賀市で何としても犯罪被害者支援条例を作りたいと思いで動き出して久しい。

発端は15年12月に行った市議会常任委員会での条例制定を求める陳情。

陳情は10人の委員全員の賛同が得られず審査終了となり、無念の思いで終わった。

その後もいろいろリベンジした。

17年10月には市長に直接面談し、条例制定の必要性を訴えた。

思いの端緒は、もちろん95年に起きた息子の交通死亡事故であった。

それをきっかけに、40万都市横須賀で交通事故犯罪のみならず多発する凶悪悪質犯罪、

性犯罪等に対処していくためには、何としても犯罪被害者支援条例は必須であるとの

確信のもと、これまで動いてきた。

その過程で、40人いる市議の中、最も信頼できる方だと思っている青木哲正さんに巡り合った。

一昨日、青木さんと話し合ったテーマは条例化に向けてのこれからの進め方。

以下、青木さんの発言と意向。

「私もそうであったが犯罪被害者についてこれまで知識がなかった。

これから議会で進めていく上で理解する議員を増やし、そのメンバーに条例制定の必要性を

理解してもらうことが必須である。犯罪被害者支援条例をつくる上で一番考えることは

実態に即した活きた条例、条文に作り上げていくことである。

活きた条文、条例にするためには辛い、悲しい経験をされた被害者の皆さんのお話を皆で直に

お聴きし、条文のすき間を埋め、その想いを織り込んだ活きた条文、条例にしたい。

そのために条例つくりに参加するメンバー議員が決まったら、数名の被害者、遺族の方々から

お話をお聴きしたいと思っている。ご協力いただけるようであれば、3~4人の方々に

お集まりいただき、数回会合を持ち、関与する議員が十分に理解した上で実情、実態に即した

条例、条文を作り上げていきたい。会合は6月を目途にスタートし条例は年末制定を目指したい」

まさに願ったり叶ったり。

全国の市町で犯罪被害者支援条例策定の動きがあるが、これほど被害者に寄り添った条例を

作った市町はないのではなかろうか。

この町で犯罪被害者支援条例の必要性を説きはじめて5年。

理解者を得て、やっとここまで辿りついたとの思い。

被害者の経験、思いを語る場に出てきて欲しいと思うふたりの方々に早速連絡を取り、

参加を要請し承諾していただいた。

是非とも、青木さんの考える今年末の条例制定に向けて一緒に動いていきたいとの思いを

一層強くした。

打ち合わせが終わったあと青木さんの部屋に飾ってある3枚の絵について話を聞いた。

絵は横須賀総合高校の生徒たちが描いた絵であること、たくさん応募のあった絵の中から

自らが審査委員長になり選んだ絵が廊下にも並んでいる。そのうちの3作品とのこと。

時々行く議会事務局、行けば必ず廊下に掲げられた絵を観るのが楽しみ。

今回も廊下に掲げられた生徒たちの絵をじっくり見せてもらった。

Img_2047-5

2020年4月 2日 (木)

どれも思い出いっぱい ①

ベッドの脇の壁に貼っている、いろいろ。

Bed-pic

それぞれについて説明する前に。

我が家はボクの部屋は1階の娘が使っていた部屋、カミさんは2階と住み分けが

はじまったのは、10年くらい前。

ボクは娘がかつて使っていたベッド、カミさんは2階のダブルベッド。

このダブルベッドは懸賞でもらったもの。

結婚する前だから50年くらい前、ある日カミさんが母親と一緒に倉敷に出てきて

いたとき、たしか蛇の目ミシンだったと思うが、街頭でミシンの宣伝PRをやっていて

応募用紙をもらってかえり後日投函したそう。

それが大当たり、何と100万円相当の家財道具一式が当たった。

50年前の100万円だから大変なもの。

電気製品から家財道具、その中のひとつがダブルベッドだった。

間もなく、我々は所帯を持った。

結婚する直前だったので、カミさんの実家は家財道具を買うことなく大成功。

だが、結婚後住むことになったのは、1DKの会社の借り上げ社宅。

当選で当たった家財道具は入るわけがない。

ダブルベッドなど、とんでもない。

そこで、大半の家財は田舎の大きな家のカミさんの実家に置くことになり

1DKに収まるものだけ、洋服ダンス、テレビ、冷蔵庫などが借り上げ社宅に送られてきた。

1DKのあと2DKの公団賃貸住宅に引越したが、2DKにも当然多くは収まらない。

1974年から77年まで3年間はシドニー駐在。

帰国したあと住む家に困ると思い、公団住宅はそのままにし、冷蔵庫の電気は3年間

入れっぱなしにしたまま、シドニーへ。

途中1度、一時帰国の機会があり、知り合いの独身者に住んでもらうことにした。

帰国後、公団住宅に戻ってきたものの、子供たちが幼稚園に通う歳になってきていて

家を何とかしないとと。

シドニーから帰ってきた翌78年にカミさんがたまたま新聞広告で見つけた今住むこの家を見に来て

「通勤遠いなぁ」と逡巡するボクに「ここに決めよう。あなたが我慢してくれれば、環境は良いし、

ここ最高」と言い、カミさんが持っていた1万円を内金で払い、結婚8年後にやっと住み家が決まった。

以来42年、定年退職し16年、すばらしい眺望に恵まれ、周りの環境にも大満足のこの家を

即断即決「決めよう」と言ってくれたカミさんには感謝しても、しきれない。

脇道にそれてしまい、壁紙の思い出は次回以降に。

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