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2018年12月17日 (月)

追想「我が家の変遷」(1)

今朝、近くを散策。 

あらためて思った。良い環境の街に家を求めてよかったと。 

この場所と家を選んだのはカミサン。そのことは後述。 

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散策しながら、結婚してこれまで50年近くの我が家の住み家の変遷を思い起こしてみた。 

結婚したのは1970年。 

結婚前に住んでいたのは、2人一部屋、ただ寝るだけという感じの6畳の会社の寮。 

結婚を決めたあと、とにかく住む家を手当てしなければと思い、会社の厚生課に 

社宅に住みたいと相談に行った。

紹介されたのは、川崎市の西端にあった借り上げ社宅。

地元の農家の方が、なし園をやめて建てた1DKの2階建てアパート。

ダイニングを兼ねたキッチンと6畳一間。

家具を置くと布団を敷くスペースがあるだけの小さな部屋だったが新婚のふたりには十分。

そのうち子供ができ、もう1部屋あるところに移りたいと、公団住宅に何度か申込みし、

やっと当たって、板橋区にある超大型団地 高島平団地の最上階16階の部屋に移った。

1974年、オーストラリアのシドニーに出向することが決まり、3年の任期を終え帰って

きたとき、また家探しすることは大変だと思い、借りたままにしてシドニーへ。

いない間、家賃を払い続けることがイヤで、任期中1度一時帰国の機会があり

会社の知り合いに話し、帰国するまで住んでもらうことにした。

赴任したシドニーでは、高島平の団地に到底比べものにならない大きな庭付きの家に

住んだ。

「えっ、こんな家賃でこんな家に住めるの」と、ものすごくうれしかった。

週に60ドル(当時オーストラリアドルは300円くらい)の家賃もありがたかった。

しばらくして、南アフリカに赴任していた家のオーナーが帰国することになり、退去せざるを

得なく、別の家を見つけ転居した。

2軒目の家も庭付きで、1軒目より少し高かったが、十分満足できる値段だった。

当時はまだシドニーに住む日本人が少なかったこともあり、両方の家の隣人が親切に

面倒をみてくれた。

こうして1974年、31歳で赴任したシドニーに3年間いて、34歳のとき、ふたりの子供を

連れて帰国した。

帰国して住んだのは、1年半くらい会社の知り合いに住んでもらっていた高島平団地。

帰国してすぐ住んで生活できるように、3年離れている間、、冷蔵庫の電源は入れたままに

しておいた。

当然、庭付きの広い家に3年間住んだあと帰ってきて住んだ2DKの公団住宅の我が家は

とても狭く感じた。

こんな笑い話のような話もある。

そんな狭い団地ではあったが、帰国後何度かオーストラリアから出張してきた富士通

オーストラリアの仲間を我が家に招待したことがある。

そのうちのひとりが、狭い台所の一角で食事をしたあと、閉めていたふすまを指して、

「この奥がベッドルームか?」と尋ねてきたことがあった。

ふすまを開けてとなりの畳の部屋を見せて、みんなで笑ったのを思い出す。

この高島平の団地から、1978年、35歳のとき、ここ横須賀の家に越してきた。

そのいきさつは次の(2)で紹介。


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