韓国の思い出(3)
韓国の思い出(2)を書いたのは3週間前。
(2)の最後に、こう書いた↓
板門店には外国人であれば見学に行けると聞いていて、ぜひ行きたいと思った。
ただ、平日しか見学はできなかった。
これだけ回数来ている韓国。東京に黙って、1日全員休んで板門店に行くことを決めた。
板門店はソウルの北80キロの38度線上、朝鮮戦争の停戦ラインである韓国と北朝鮮の
軍事境界線上にある。
今は板門店ツアーがあるようだが、35年前はパスポートを提示し、路線バスでしか
行けなかった。
板門店には行くことが許されない韓国人は、バスを途中で降ろされた。
板門店に着いてバスを降りるやいなや、大変な緊張感、緊迫感を感じた。
「軍事停戦委員会」の会議場の建物に案内された。
会議場の中心には細長いテーブルがあり、その中心にマイクが置かれ、マイクのケーブルは
北と南の境界線を示すように配線されていた。
見学者はマイクのケーブルの北側に立つことは許されなかった。
説明員がついたかどうかは記憶がないし、説明があったとしても何語で説明されたかも
記憶にない。
言葉を発することは許されなかったと思う。
ただ、35年経った今でも会議場内の様子はまざまざと脳裏に浮かんでくる。
会議場を出たあと、建物の前の広場から遠方には北朝鮮が臨めた。
遠方からスピーカーで大きな声が流れていた。
北がいかにいい国であるかを喧伝している放送であると教わった。
広場の下には100mくらいだったろうか橋がかかっていた。
橋のこちら側には韓国兵が銃を構え立っていて、向こう側にはやはり銃を構えた北の兵士が
立っていて、まさに対峙していた。
有名なポプラ事件が起きたのはこの橋だった。
ポプラの枝の剪定作業をしていた国連軍(韓国側)のアメリカ人将校が、北朝鮮兵士に
襲撃され斧で撲殺された事件である。
館内には展示があり、北が南に密かに侵攻するために掘ったトンネルが写真とともに
紹介されていたのを思い出す。
35年経った今も南北の緊張状態はまったく治まることなく、ある日を境に別離した
家族は南と北に引き裂かれたまま、日々を送り、生き別れしたまま亡くなっていくという
筆舌に尽くし難い悲劇がいまなお途絶えることなく続いている。
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