韓国の思い出(2)
1980年初め、韓国がどれほど北と緊迫した関係にあったか、それと北の脅威を国民に
いかに洗脳していたかについて、記憶をたどりながら書いていく。
韓国と北朝鮮が厳しく対峙し緊迫した関係になった発端は、1948年に朝鮮民族を分断し
ふたつの国、韓国と北朝鮮ができ、その2年後に両国の間で朝鮮半島の主権を巡り起きた
朝鮮戦争であった。
韓国側には、アメリカ軍を中心とした国連軍が参戦、北朝鮮側にはソ連と中国が参戦し、
アメリカとソ連の代理戦争の様相を呈した。
3年間に及ぶ戦争により、朝鮮半島全土は戦場と化し、両国を荒廃させた。
韓国と北朝鮮は、もちろん元々は同じ朝鮮民族。
それが朝鮮戦争から65年近く経った今なお、緊張関係にあるという大変悲しい状況にある。
朝鮮戦争を機に離散してしまい、行き来ができなくなった家族はたくさんいる。
ボクが頻繁に韓国に出張していた時期、韓国は同胞である北朝鮮に対し、その脅威と憎しみを
あらゆる形で国民に喧伝し洗脳していた。
北の脅威を国民に洗脳するということでは、記憶していることがたくさんある。
当時、街には戒厳令が敷かれ、夜中0時以降の外出は許されなかった。
泊っていたホテルの窓から見ていると、10分くらい前まで人が行き交っていた道には
0時になると軍の衛視以外誰もいなくなり、通行人は皆無。
さっきまで、数多くいたあの人たちはいったいどこに行ったのだろうか、と不思議であった。
もし衛視に見つかれば、誰何(スイカ)され逃げたら射殺されると韓国の人から聞いていた。
また、北からの攻撃を恐れ、月に1度灯火管制が敷かれ、時間は覚えてないが、すべての
民家や建物では電灯を消すことが義務付けられていた。
また、月に数度、事務所内の警報が鳴り、当時事務所のあったソウル駅前のビルの20階
くらいのフロアから全員階段を使って降りて、駅前の地下道に逃げ込む避難訓練があり、
何度も経験した。
ソウルの郊外に通じる道には、ところどころ道の上にガードレールのような感じの
建造物が造られていた。会社の韓国人の仲間に聞くと、中にはダイナマイトが仕掛け
られていて、北朝鮮が攻めてきたとき、爆破させ道路を封鎖するためだと教えられた。
また、毎日夕方5時になるとスピーカーから国歌が流れてきて、全員大きな部屋に集まり
姿勢を正し、国旗を正視することが日課になっていた。
韓国富士通の事務所の入口には、たしか「北塊」だったと記憶しているが、写真がいっぱい
掲載されたグラフ誌が置いてあった。ハングルなので中身は解らなかったが、写真から
北の悪態を報道した雑誌だと推測できた。
また、当時富士通韓国から技術者がしばしば東京に出張してきた。
打ち合せが終わったあと、一緒に食事に行っていたが、彼らは絶対焼肉屋には行かなかった。
曰く、「北の人間がやっている店かもしれない」
1948年南北が分断される前は、もちろん北も南も同じ国の同胞。
1950年にはじまった朝鮮戦争は1953年に休戦(現在も戦争は終結ではなく、停戦中)
休戦協定は、38度線近くの板門店で結ばれた。
当時、板門店には外国人であれば見学に行けると聞いていて、ぜひ行きたいと思った。
ただ、平日しか見学はできなかった。
これだけ回数来ている韓国。東京には黙って、1日全員休んで板門店に行くことを決めた。
長くなるので、板門店行きは次回の「韓国の思い出(3)」で。
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