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2014年8月

2014年8月29日 (金)

夏も終わり

お盆も高校野球も終わり、暑さもおさまり、学校もはじまり、今年の夏も終わりに近い。 

この歳になっても一番好きな四季は夏。そのため夏が終わるのは寂しい。 

今年もうちから車で7~8分の海に3度泳ぎに行った。 

小さな浜で人が少なく、きれいな海なので毎年泳ぎに行く。 

Hasirimizu
写真の山際に見える岩のあるところまでは100メートルくらいか。 

シュノーケルをつけて岩場まで泳いで、30分くらい潜ったり、プカプカしたり。 

この岩場まで行けば多くの魚がいる。 

一番多いのはベラ。ただ、今年は例年に比べベラの数が少なかった。 

毎年、この浜に行けば小さな海の家をやっているおじいさんとおばあさんに会える。 

今年は頑固一徹のおじいさんがいなかった。 

おばあさんに聞いてみると「4月に91歳で亡くなった。朝、ご飯を食べようと 

声をかけたら、首が前にこくりと動き、返事したかと思ったら、こと切れていた。 

心臓麻痺だった。まぁ、幸せな最期だったのかも」

2014年8月24日 (日)

御柱祭 in Yokosuka

昨日、今日と我が家から15分くらいの大津諏訪神社で御柱祭(おんばしらさい)が 

行われた。  

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御柱祭は日本三大奇祭のひとつで長野県諏訪地方の伝統神事。  

その御柱祭が諏訪の本山の流れを汲む地元で行われるということで、ずっと楽しみに 

していた。  

諏訪では7年目ごとに行われており、伐採した大木に人を乗せたまま山の斜面を下る  

「木落とし」は特に見もの。山から下ろしたあとは「里曳き」し、ご神木を神社の境内に  

建てる「建御柱」で神事は終わる。  

初日の昨日土曜日は「里曳き」  

神社から800m離れた運動公園からスタートし、90度の三叉路のコーナーを回り、 

交通を遮断した交差点を横切り、大津諏訪神社までの道のりを、長野県茅野市から 

来た180人の氏子を中心に約2時間かけて勇ましい掛け声とともに練り歩いた。  

ご神木は長さ11メートル、重さ4トンの大木。  

ご神木のモミの木は今月12日に長野県で伐採され、昨日早朝、長野県から大津に  

運び込まれたとのこと。 

乗り手、曳き手、いずれも威勢がいい。 

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曳き手に引かれ、11mのご神木。

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引きずられたご神木の後ろには、引きずられた跡が。 

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地元の衆議員議員、小泉進次郎の顔も見えた。 

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今朝日曜日は11時から、昨日諏訪神社に運び込まれたご神木を神社の境内に建てる 

「建御柱」が威勢よく行われた。 

どのようにして、長さ11メートル、重さ4トンの御柱を建てるのか興味津々で準備作業を

待った。 

境内には大型クレーンが持ち込まれていたが、これは何かあったときのバックアップの 

ためで、ご神木はあくまでも人力によって建てられると、スピーカーで説明があった。 

ただ、人があまりにも多く、準備作業を目の前で見ることができなかった。 

1時間以上、暑い中立って待つのは厳しかったが、見に来ている人は皆、どのように 

御柱が建てられていくのか見たくて、帰る人はいなかった。 

御柱にはたくさんのロープが張られ、安全を期して作業は慎重に続けられた。 

やっと長野県から来た氏子の人たちが御柱に乗り、いよいよ「建御柱」がはじまった。 

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御柱は徐々に立ち上がっていく。 

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ついに御柱が建った! 

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こうして2日間の神事は無事終了した。 

長野から来た180人の氏子さんたち、それに手助けした大津諏訪神社の氏子さんたち 

お疲れさまでした。 

夏の終りに、楽しみにしていた興味深い祭事を観ることができ感激。

2014年8月21日 (木)

娘たちの帰省

先週金曜日、娘たちが夏休みで我が家に来て、5泊した。 

遠い沖縄との行き来は頻繁には難しい。ただ、夏休みだけは必ず帰ってくる。 

今回はパパの休みがまとめて取れたので、我が家に来る前、家族で北欧のノルウエーと 

デンマークに旅行し、その帰りに横須賀に寄った。 

来るなり、孫たちはiPadでゲームをはじめた。

既に知っている「キャンディ クラッシュ」、それに今回カミサンが教えた「星の島のにゃんこ」に

ふたりは完全にはまっていた。マスターするのが早いこと、早いこと。

「お宅のiPadでダウンロードすればいいじゃないの」と言ったら、「ゲームで使っちゃあ

ダメなの」 

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翌日、土曜日は朝墓参りし、午後は来る前から「ゼッタイ行く」と言っていた家から歩いて

5分少々のところにある市営プールへ。 

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2時間めいっぱい遊んだ。 

妹孫は去年に比べ、ずっと水に慣れてきていた。 

夜はみんなで送り火を焚き、花火。 

日曜日は横須賀のショッピングセンターへ。 

お昼を回転すしのスシローで食べたあと、孫たち待望のショッピングツアーへ。 

以前やって大受けした、ひとりに2千円づつ持たせ何でも好きなものが買えるショッピング

ツアー。前回やったあと何度も何度も「おもしろかった」と喜んでいて、今年も来たらすぐ

「ショッピングツアーやりたい」 

前回は千円だったのを今回は増額。小学校4年生と1年生なので、娘が「多すぎる」と。 

残ったお金は来年にとっておくと、袋に名前と残額を書いて置いていった。 

ツアーに付き合ったがなかなか買うものが決められない。またふたりが選ぶものは違う。 

妹孫は300円でピアスを買い、得意げにつけていた。この間までオムツをしていたのに(笑)

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月曜日には代官山に出かけた。

娘の商品、琉Qブランドの「パッションフルーツ・バター」が店に並んでいるのでは

ということで、わざわざ出かけた。

代官山の駅を降りたのははじめて。さすがおしゃれな街。

最近話題になっている情報発信基地「代官山 蔦屋書店」へ。

蔦屋書店は「文化と生活をもっと楽しむ」をキャッチフレーズに、レンタルショップの

TSUTAYAが作った店で、本、音楽、映画、文具、旅行などのアイテムが並ぶ魅力的な店。

まだ全国で数店舗だが、これから増やしていくようである。

娘の商品は今月末に蔦屋書店に置いてもらえるらしい。

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娘の案内で蔦屋書店から歩いて数分のところにあるケーキショップに寄った。 

この店はイルプルというお菓子つくりの教室がやっていて、娘は結婚する前、働いて貯めた 

お金を使いイルプルに1年間通い、フランス菓子の基礎を学んだ。

写真はイルプルの教室といただいたケーキ。

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この日の夜は、カミサンがネットで探した五反田にあるシンガポール シーフードレストラン

シンガポール・シーフード・リパブリック・ジュニア で食事をした。美味しく当たりの店だった。

一昨日は2年ぶりにパパが我が家に来て1泊した。

ビールとワインでみんなでワイワイ。

北欧旅行の写真をパソコンに映し、姉孫が解説してくれた。

カードゲームのUNOを全員でやって、なんと妹孫がトップで上がり、パパが一番負け。

孫たちはやり方をよく覚えていて、Reverse,Skip,Draw four cardsなどの英語の札も

理解していてびっくり。

娘一家は6日間めいっぱい楽しんで、昨日沖縄に帰っていった。

2014年8月16日 (土)

ヨコスカをよくする会

月曜日の夜、「ヨコスカをよくする会」の会合に参加した。

会の主宰者は弁護士の呉東正彦さん。

呉東さんとは、呉東さんが立候補した前々回の横須賀市長選挙で応援をしたことを

きっかけに知り合った。

市長選には敗れたものの、以来ずっと社会派、人道派弁護士の立場で、まさに横須賀を

よくする活動を続けられている。

呉東さんは、多重債務問題、消費者金融問題、貧困問題に長い間取り組み、日本弁護士

連合会の前会長を務めた宇都宮健児さんの一番弟子的な方。

これまでも呉東さんが主催する会合には何度も参加した。

月曜日夜の会合のテーマは「横須賀市施設配置適正化計画」

横須賀市では、人口減少や財政状況の悪化に伴い、市の公共施設の維持が難しく

なったとして、向こう10年・20年・38年に市の施設17%縮減計画(素案)を発表した。

縮減の対象はコミュニティセンター、小学校、中学校、各種福祉施設、市民が集う各種会館

などであり、市民の生活に大きな影響を及ぼす施設をなくしていくという計画。

当日は35名くらいの人たちが参加し、市の財政部からも部長はじめ3名が出席した。

大変身近な問題に対し、大いに議論が盛り上がった。

市側の主張は、①公共施設の6割が築後30年以上たっており、今後多額の更新費用が

必要、②人口減少、少子高齢化に伴う社会保障費などの歳出の増加、③市税などの

歳入の減少など、財務状況中心に窮状を説明し、理解を得たいとの姿勢に終始した。

素案は6・7月に市内5カ所で市長も参加し車座会合が行われ、委員会を設け審議し、

秋にはパブリックコメントを市民に求め、今年度末の来年3月までに素案を実行案に

まとめるという、いわば国含めた行政の定型パターンで処理しようとする姿勢が

見え見えであった。

このような当局の説明に対し、出席者の意見は、①文化行政の逆行、②市民サービスの

一方的な低下、③委員会で出された疑義、④策定を急ぐ理由、⑤受益者負担の考え方、

⑥素案改善への市民参加の方法、⑦施設の多目的化・跡地の処分・・・

市側の回答には参加者は納得ができないまま、会合は平行線で終わった。

横須賀だけではなく、公共施設の縮減・廃止は全国の自治体にとって喫緊の問題と

なっており、4月には総務省から全国の都道府県、市区町村に対し通達が出されている。

「ヨコスカをよくする会」の一会員として、今後も動きを見守っていきたい。

2014年8月12日 (火)

隣のジャスティン一家、米国へ帰国

となりに住む、横須賀の米軍基地(ベース)に勤めるジャスティン一家が、先日3年2か月の

横須賀勤務を終え、アメリカに帰国することになった。

サンディエゴから来たが、帰国してからの勤務はサンフランシスコとのこと。

しばらく前まではこんな↓感じの庭だったが、今は何もなし。

サンフランシスコに帰る前1ヶ月くらい、ベースの中にある着任者・帰任者用のホテルに

泊まるとのこと。

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我が家は連棟式のテラスハウス。

奥に見えるフェンスを境に、となり同士は気兼ねなく交流できる。

「はーい」で会話がはじまり、顔を合わせればおしゃべりしていた仲だったので淋しくなった。

とってもいい家族だった。

ジャスティンと奥さんのハンナの間には、来たときは子供はクーパーひとりだったが、

男の子のサムエルと女の子のクッキーができ、2男1女となった。

出産のたびにハンナのお母さんが娘の支援のため、サンディエゴから来て、しばらく

逗留していた。

一家は富士山、沖縄ほか家族であちこち旅行し、帰国する前に広島に行く予定だと

ジャスティンが話していた。

クーパーに日本語を覚えさせたいと、1年くらい近くの幼稚園に通わせていたが

難しかったようで諦めた。

ママ友や職場仲間の友だちらしき人たちが毎日のように来ていた。

となりに住んだベースのアメリカ人家族はジャスティン一家が4組目。

ジャスティンたちの前に住んでいたのは、シングルマザーだったケリー、それに来たときは

6ヶ月の赤ちゃんだったグレイシー。

ケリーは2年半で帰国した。

ケリーにはいろんな思い出がある。

「蜘蛛が出た!」と何度も我が家に飛び込んできて、ケリーの家に入り退治したこと。

住みはじめて3ヶ月くらいたったころ、仕事でボスの家に招待され、どうしても行かなければ

ダメなのでと言われ、夜5時間くらいグレイシーを預かったこと。

さあ、次はどんな家族が来るだろう。楽しみだ。

2014年8月 9日 (土)

定年後はじめて

今週は元の会社の仲間との会食の機会が3度もあった。 

1週間に3度は定年後初めてのこと。 

ボクはそもそも会社が終われば、会社との関係は終わり、退職後は会社以外の 

人たちとの交流をはじめようと思って退職した。 

そのため、最後にいた職場で何度も誘われたOBメンバー会への参加も断った。 

そういう中、声をかけてくれる人たちがいて、退職後3つのグループのメンバーになった。

それと数名単位のグループで集まる会合にも、ときどき声がかかる。 

今週水曜日、30年以上前から知っている女性から連絡があり「昔の職場の女性 

数人に声をかけるので、ランチしない」と会食の誘いがあった。 

会食場所は、蒲田の富士通ソリューション・スクエア。 

現役時代はシスラボと呼ばれていたビルがリニューアルされソフトウエア開発拠点に。 

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待ち合せ場所はこのビルの社食。 

「部外者が入って大丈夫なの?」とランチをアレンジしてくれたTさんにメールで確認すると 

地元の人たちにも開放しているお店なので大丈夫とのこと。 

4人集まった中、ふたりはまだ現役。たしかにここだと話が終わればすぐ仕事ができる。 

遅れてきたIさんは「2週間海外に行ってた」と言い、会うのは15年ぶりくらい。 

「いまやってること手伝ってもらえない?」と仕事のオファーらしき話があり、他のふたりも 

「手伝ってあげたら」と。 

「申し訳ないけど、もう働く気はまったくない」と返事した。 

もうひとりの女性Tさんと最後に会ったのは19年前の息子の通夜。 

Tさんは今年10月に完全に退職したあと、沖縄に買ってあるマンションと東京のマンションを

行き来する予定とのこと。沖縄のマンションでは男性向け料理教室を開く予定とか。 

ソムリエ資格を持っていて、沖縄の娘に引きあわせれば、何かコラボができそうな気がする。 

食事が終わり、Iさんが仕事に戻ったあと、3人で蒲田駅近くでお茶した。 

昨日金曜日は会社の先輩ふたりと横須賀でランチ。 

40年前、オーストラリアに駐在した当初の仲間。 

昔話、それぞれの近況、家族、話題は尽きない。 

Mさんは間もなく80歳。昔からゴルフがうまかった。 

すこぶる健康で住んでいるマンション内にあるジム、プールで毎日運動しているとのこと。 

こういう風に歳を重ねていきたいと思える人。 

もうひとりのNさんはボクより4歳上。囲碁の上達が著しく4段に昇格したとのこと。 

健康のためにサイクリングをかかさず、晩酌が何よりの楽しみとのこと。 

2時間以上、3人で心地よく話した。 

昨日、金曜日の夜は年2回くらいのペースで集まっているオーストラリアでの仕事仲間の 

飲み会が新宿であった。 

富士通オーストラリアの事務所があった場所に因んで、Chatswood会。 

昨夜は10人少々集まった。一番若い仲間が55歳、みんなロートルになった。 

昔の話だけでなく、昨今の富士通の話や面白い話題が色々飛び交い、7時にはじまった 

飲み会が終わったのは9時半、あっという間の2時間半だった。

2014年8月 6日 (水)

広島原爆記念日

定年後、毎年8月6日、午前8時15分、広島原爆記念日の式典をテレビで観みながら 

犠牲になられた方々に、深い哀悼の想いを込めて黙とうを捧げる。 

今年は被爆69年。 

集団的自衛権の行使容認が、多くの国民の反対の中、結局、憲法改正に正面から 

向き合うことなく、閣議決定するという姑息な手段で、うやむやの中決められた。 

慙愧に堪えない。

今朝は珍しく雨が降りしきる中での式典、今年も松井広島市長の平和宣言は心を打った。

挨拶の中で、あえてであったのだろう、直接的には集団的自衛権行使容認については

触れなかった。

代わりに、69年間戦争に無縁であったことを重く受け止めなければならないこと、それに

未来志向の話し合いのできる世界であり続けて欲しいと語られた。

あわせて、高齢になられてしまった被ばく経験をされた方々が実相を語り継げなくなって

いくことに対する強い危機感が述べられた。

今年も慰霊碑に刻まれた文言が心に残った。

  『安らかに眠って下さい。過ちはくりかえしませぬから』

8月1日の朝日新聞朝刊に「被爆69年 今こそ語る」という1面記事が掲載されていた。 

語っている方々は広島、長崎で被爆され、日本全国に住む大半が90歳台の方々。 

まさに今こそ語っておいていただかないと、語ることができる人がいなくなってしまう。 

語られた中には、紹介することを憚るようなおぞましい生き地獄が多く書かれていた。 

 「がれきの下からは”助けて”の声。数人の遺体をまとめて焼いたときのにおいは 

 忘れられない」  

 「ウジのわく死体や、水を求める人が今も夢に出てくる。家族に多くは語ってこなかった」 

 「3日後に広島に戻った。司令部は跡形もなく、門の前では兵士が立ったままで 

 炭になっていた。自分だけが生きているという、それまで感じたことのない感覚だった」 

 「幼い男の子が家の下敷きになり”お母さん”と叫んでいた。がれきを動かせず、火が 

 迫ってきた。母親を説得して離れたが、置き去りにされた男の子の悲しい顔は忘れ 

 ようがない」  

 「電車の中でつり革を握ったまま焼け焦げた人、小さな子供の遺体・・・、忘れられない」 

 「はらわたを出して道路で倒れていた男の子。兄なのかそれを必死に押さえていた」 

 「看護を手伝った小学校に大やけどした中学生の男の子がいた。”大きくなったら米国を 

 やっつけてやる”と言い、両親の名を叫びながら死んでいった。 

 「ガーゼを交換するとウジ虫がわいていた。女の人は髪をすくと毛がごっそりと抜け、 

 多くの人が蛇口をひねったような下痢を繰り返した。救える命は少なく、無力さを感じた」  

集団的自衛権の行使容認のハードルを超えたことにより、この国は再び「戦争のできる国」 

に踏み出し、原発再稼働も近づく。 

上記の手記はひとたび戦争がはじまれば、我々市民の誰もが遭遇する可能性のある 

「生き地獄」である。 

今後、平和へ、不戦へ、どう歩んでいけばよいのか。 

続いていく世代の人たちのため、「集団的自衛権の行使容認」が、平和、不戦を 

ないがしろにする迷路に入っていく入口にはゼッタイにゼッタイになることがないように!

2014年8月 2日 (土)

シドニー駐在時代の思い出(6:最終)

シドニーの思い出話は今回を最後に。 

雑記になりそうだが、思い出す話を公私おりまぜて。 

着任したころはとにかく英語で苦労した。 

電話が鳴っても取れない。周りから「Tak,電話を取れ」とよく言われた。 

そのころ、ボスから「日本人に相談したいことがあるので、誰か来させてくれとメルボルン 

支店長から頼まれたので行ってくれ」と言われたことがある。 

メルボルン支店には日本人は誰もいない、行ったとしても相談に応えられるだろうか、 

いろいろ心配だったが上司の指示なので行くしかない。 

相談を受けたことに対応できたかどうか、出張の目的が達せられたかどうか、まったく 

覚えてない。 

ただ、ふたつのことをしっかり覚えている。 

行った日の昼休み、「さあどこでお昼を食べればいいんだろう」と思っていたら、初めて 

会ったひとりが声をかけてくれて、ついて行った。 

事務所の近くの食事もできるバーのような店だった。 

仲間たちは、すぐに酒を飲みながら、ビリアードをはじめた。ボクの酒も注文してくれて 

スヌーカーというビリヤードのルールを教えてくれた。酒と食事とスヌーカーは延々と続き 

みんなで事務所に帰ったら3時ころだった。 

帰る前に支店長に仕事の結果を報告した。 

ボクが「1日英語で疲れた」と言ったら、支店長が笑いながら「お前の英語を聞くのに 

俺も疲れた」と言ったことを思い出す。 

日本のサラリーマンとオーストラリアのサラリーマンの違い、それにリタイアしたあと 

どうするかについて、よく仲間と話した。 

富士通オーストラリアの中にはイギリスから移民してきた仲間が少なくなかった。 

移民してきて、5年くらいでプール付きの家を建てた仲間も珍しくなかった。 

家だけでなくヨットを持った仲間もいて、出張したとき週末ヨットに乗せてもらったことがある。 

ふたりの男の子に指示し、大きなヨットの操り方を教えていた父親にまさに父権を感じた。 

暮れなずむシドニー湾にヨットを浮かべ、奥さんの作ってきた食事をみんなで食べ、 

思わず「This is the Life!」と言ったのを覚えている。 

半面、仕事の厳しさを垣間見たこともあった。 

出張でニュージランドのオークランド事務所に行ったとき、雑談していた女性がボスの 

部屋に呼ばれた。 

10分くらいで彼女は部屋から出てきて、泣きだした。 

どうしたのかと聞くと「クビだと言われ、明日から事務所には来る必要ないと言われた」 

今では、日本でも同じようなことは珍しくないだろうが、30年くらい前、こんなことが 

起きるのかとショックを受けたことを思い出す。 

こんなこともあった。 

3年の任期が終わる少し前、3年近く住んだオーストラリアが好きになり、カミサンに 

内緒で、この国に移民できないものかと考えはじめた。34歳のときだった。 

シティにあった移民局に話を聞きに行った。 

先ず、「仕事は何をしているか?」と聞かれ、「コンピュータ エンジニア」と答えたら、 

「いいねぇ、コンピュータ エンジニアはまだまだこの国には不足しており、いま働いている

会社の責任者の推薦状があれば、永住ビザが出せる」との返事だった。 

ただ、カミサンには話を切り出せず、帰国の2か月くらい前に思い切って話した。 

開口一番、「何を考えてるの!、ゼッタイ予定通り帰るから」と言われ、はかなくも 

夢は潰えた。 

あれから37年、もしもあのとき、とその後何度も思った。 

まったく違った人生を歩んでいたことは間違いない。 

シドニー駐在の思い出話はこれで終わりとしたい。 

別の機会に、1980年前後、数10回出張した、今は関係が極めて悪い韓国の思い出を 

紹介したい。

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