シドニーの思い出話は今回を最後に。
雑記になりそうだが、思い出す話を公私おりまぜて。
着任したころはとにかく英語で苦労した。
電話が鳴っても取れない。周りから「Tak,電話を取れ」とよく言われた。
そのころ、ボスから「日本人に相談したいことがあるので、誰か来させてくれとメルボルン
支店長から頼まれたので行ってくれ」と言われたことがある。
メルボルン支店には日本人は誰もいない、行ったとしても相談に応えられるだろうか、
いろいろ心配だったが上司の指示なので行くしかない。
相談を受けたことに対応できたかどうか、出張の目的が達せられたかどうか、まったく
覚えてない。
ただ、ふたつのことをしっかり覚えている。
行った日の昼休み、「さあどこでお昼を食べればいいんだろう」と思っていたら、初めて
会ったひとりが声をかけてくれて、ついて行った。
事務所の近くの食事もできるバーのような店だった。
仲間たちは、すぐに酒を飲みながら、ビリアードをはじめた。ボクの酒も注文してくれて
スヌーカーというビリヤードのルールを教えてくれた。酒と食事とスヌーカーは延々と続き
みんなで事務所に帰ったら3時ころだった。
帰る前に支店長に仕事の結果を報告した。
ボクが「1日英語で疲れた」と言ったら、支店長が笑いながら「お前の英語を聞くのに
俺も疲れた」と言ったことを思い出す。
日本のサラリーマンとオーストラリアのサラリーマンの違い、それにリタイアしたあと
どうするかについて、よく仲間と話した。
富士通オーストラリアの中にはイギリスから移民してきた仲間が少なくなかった。
移民してきて、5年くらいでプール付きの家を建てた仲間も珍しくなかった。
家だけでなくヨットを持った仲間もいて、出張したとき週末ヨットに乗せてもらったことがある。
ふたりの男の子に指示し、大きなヨットの操り方を教えていた父親にまさに父権を感じた。
暮れなずむシドニー湾にヨットを浮かべ、奥さんの作ってきた食事をみんなで食べ、
思わず「This is the Life!」と言ったのを覚えている。
半面、仕事の厳しさを垣間見たこともあった。
出張でニュージランドのオークランド事務所に行ったとき、雑談していた女性がボスの
部屋に呼ばれた。
10分くらいで彼女は部屋から出てきて、泣きだした。
どうしたのかと聞くと「クビだと言われ、明日から事務所には来る必要ないと言われた」
今では、日本でも同じようなことは珍しくないだろうが、30年くらい前、こんなことが
起きるのかとショックを受けたことを思い出す。
こんなこともあった。
3年の任期が終わる少し前、3年近く住んだオーストラリアが好きになり、カミサンに
内緒で、この国に移民できないものかと考えはじめた。34歳のときだった。
シティにあった移民局に話を聞きに行った。
先ず、「仕事は何をしているか?」と聞かれ、「コンピュータ エンジニア」と答えたら、
「いいねぇ、コンピュータ エンジニアはまだまだこの国には不足しており、いま働いている
会社の責任者の推薦状があれば、永住ビザが出せる」との返事だった。
ただ、カミサンには話を切り出せず、帰国の2か月くらい前に思い切って話した。
開口一番、「何を考えてるの!、ゼッタイ予定通り帰るから」と言われ、はかなくも
夢は潰えた。
あれから37年、もしもあのとき、とその後何度も思った。
まったく違った人生を歩んでいたことは間違いない。
シドニー駐在の思い出話はこれで終わりとしたい。
別の機会に、1980年前後、数10回出張した、今は関係が極めて悪い韓国の思い出を
紹介したい。
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