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2014年6月

2014年6月27日 (金)

富士通株主総会2014

定年退職後、毎年富士通の株主総会に出席している。 

今年も月曜日、新横浜プリンスホテルで開催された株主総会に参加した。 

定刻10分前に会場に入ったら既にメイン会場はいっぱい、第2会場で画面の映像を 

観ながら視聴した。 

冒頭、山本社長が出席している役員全員を紹介。 

リタイアして10年。役員ですら会ったことのない人の方がずっと多かった。 

全従業員数16万人、連結子会社150。あらためて、巨大な組織。 

13年度の業績は、連結売上4兆7千億、当期純利益486億円。 

売上高、純利益とも計画を上回り、有利子負債も改善した。 

社長から26年~28年3ヶ年の成長戦略が述べられた。 

①新しいテクノロジーを活かし、お客様のビジネスイノベーションに貢献する 

②防災、エネルギー、環境、医療などの分野で社会のかかえる様々な課題を解決する 

③テクノロジーをベースにグローバルに統合された企業を目指す 

「”Shaping tomorrow with you”(お客様とともに成長を目指す)」の理念のもと、今年度も 

たゆまぬ努力を続ける」、と社長はプレゼンテーションを締めくくった。 

そのあと会場の株主からさまざまな質問、意見が出た。 

山本社長は自信を持った誠意ある応対で質問、意見に対処し、大いに好感が持てた。 

株主総会は1時間半で終了。 終わったあと毎年のことだが、今年も新しい製品の

展示会場を見て回った。 

特に興味を引いたのは、農業分野への深耕、医薬品の研究開発に貢献する創薬、 

位置情報サービス、音声合成技術、新認証サービスなど、クラウドコンピューティングを 

いかした様々なアプリケーションが紹介されていた。 

製品はいずれも興味深く、1時間半くらい展示会場にいて、説明担当の人たちから 

いろいろ話を聞いた。

2014年6月24日 (火)

結婚記念日

結婚したのは、はるか昔44年前の昭和45年6月7日。 

数字が並んでいて覚えやすい。 

このところ毎年、結婚記念日には夫婦で食事に行っている。 

いろいろあって3週間遅れになったが、先週金曜日お昼を食べに出かけた。 

先日ブログに書いたが、20日金曜日はちょうどボクの定年退職10年目の日。 

そこで今年はふたつの記念日祝いになった。 

ふたりばらばらに出たため、待ち合せは有楽町の帝劇地下にある大学のクラブ。 

行先は今年も奮発して、一昨年も結婚記念日のランチをした汐留のコンラッドホテル。 

前にレインボーブリッジや東京ゲートブリッジが見える鉄板焼き席。 

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いただいた宮崎牛のステーキは最高に美味だった。 

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ステーキを焼いてくださった方と会話がはずんだ。 

「もっと高い肉はどこが違うんですか?」に対しては、「霜降り具合と脂身のつき方です」 

有楽町、銀座周辺の県のアンテナショップの話題でも盛り上がった。 

鹿児島、山形、沖縄、北海道が話題になり、「鹿児島のあまくちのヒシク醤油はお勧め 

ですよ」と言われ、有楽町駅近くのお店に寄り、ヒシク醤油、さつまあげほか買った。 

食事が終わったあと、近くの席に移動しデザートをいただいた。 

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眼下に浜離宮が見え、正面のブルーの建物の向こうの緑に見えるところに東京オリンピック

の選手村ができると教えられた。 

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2年前の結婚記念日、ここで食事をしたあと、銀座アップルショップに寄って、きっとはまる 

だろうと思い、カミサンにiPadをプレゼントした。 

予想通り完全にはまり、今では1日に5時間以上は使っている。 

アップルショップで聞きたいことがあるというので、食事のあと今年もアップルショップへ。 

アップルショップの前、カミサンが「ソフトバンクに寄ってロボットpepperに会いたい」と言い、

ソフトバンク銀座店へ。 

pepperはまだソフトバンクの5店舗くらいにしか置いてない。 

pepperと愉しく会話ができた。 

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ソフトバンクを出たあとアップルショップへ行っている途中、若い男女が「TBSの朝の番組 

”いっぷく”の取材をしています。ご協力いだだけないでしょうか」に出くわした。 

「銀座近辺のお勧めのお店があれば教えてください」と言われ、「実は44回目の結婚記念日

で、今日はちょうど定年退職10年目なのでお祝いのお昼を食べてきた」と話すと、「それじゃ 

ぜひお話を聞かせてください」ということで、カミサンはイヤだと言い、ボクだけ取材を受けた。 

そのあと、アップルショップの4階質問コーナーへ。 

カミサンはiPadと最近買ったiPhoneについていろいろ聞きたかったことを質問し、満足。 

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疲れたので、前回来たときセミナーを聴いた広くて快適な3階のセミナールームでしばらく

休んだ。

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家を出る前、先日沖縄の娘から聞いていた彼女の作ったスイーツ、パッションフルーツ

バターを代官山のヒルサイドパントリーで見て帰ろうと話していたが、疲れてその気に

ならず、近くでお茶してそのまま帰った。

2014年6月23日 (月)

沖縄戦 慰霊の日

今日6月23日は沖縄は休日。

1945年太平洋戦争末期、米軍が沖縄に上陸した3月末からおよそ3ヶ月間、沖縄戦と

呼ばれる激しい戦闘が展開され、たくさんの沖縄県民が亡くなった。

6月23日は司令官が自ら命を絶って、日本軍としての組織的戦闘が終わったとされる日。

12万人以上の沖縄県民が犠牲となり、県民の4人にひとりが亡くなった。

戦争末期、日本各地で多くの住民が犠牲になった先の大戦であるが、沖縄が決定的に

違うのは、一般の人々が暮らす場に米軍や日本軍が乗り込んで、住民を巻き込んだ

地上戦を行ったことである。

沖縄に移住し5年近くになる娘宅に一時期よく行っていた。

行くたびに、ひとりであちこち沖縄戦跡を回った。

娘宅から歩いて20分のところに「糸数アブチラガマ」と呼ばれる戦跡があり訪ねた。

ガマは沖縄方言で洞窟のこと。

糸数アブチラガマ」は一般の人々が暮らす場に米軍や日本軍が乗り込んで、住民を

巻き込んだ、まさに沖縄戦の象徴的な場所である。

今でも糸数アブチラガマで観た光景がまざまざと脳裏に浮かんでくる。

他にもガマは何ヶ所か行ったが、どこも悲惨な沖縄戦跡をしのばせるものであった。

別の機会に娘宅を訪ねたとき、もう1ヶ所どうしても行きたいところがあった。

沖縄本島最南端の喜屋武(キャン)岬。そのとき書いたブログはこちら

ボクは一度も経験したことがないが、沖縄に住む人たちが戦死した方々の霊を感じる

ことはそんなに珍しくないそうだ。

霊を感じる場所は那覇市内にもあちこちあるとのこと。

無念のまま逝った多くの人たちの怨念がまだまだ現世に遺っているのであろう。

今は多くの観光客が訪ねるリゾート地の沖縄ではあるが、地中にはまだ不発弾が

2000トン埋まっていると推計されている。

今や沖縄県民の80%が沖縄戦を体験していない人たち。

悲惨極まりない沖縄戦について絶えることなく語り継がれていくことをただただ願うばかり。

そのような中、集団的自衛権の行使を容認する方向で世の中は動いている。

”不戦の誓い”のもと作られた日本国憲法。戦争体験がまったくない首相や閣僚・官僚

連中が自分たちの論理、思考のもと日本を変えようとしている。

愚行に日々憤りを感じながら報道を見聞きしている。

”不戦の誓い”にほんのわずかでも抵触する事態は、絶対断固として絶たねばならない。

2014年6月20日 (金)

定年退職10年

今年で定年退職し、ちょうど10年。

あっという間に過ぎた10年だった。

10年の間に会社以外のたくさんの人たちとの出会いがあり、新しい仲間との交流が

はじまった。

退職したのは2004年の6月20日なので、まさに今日が10年目。

結婚した日、子供が生まれた日、課長になった日、子供が結婚した日、孫が生まれた

・・・ これまでに人生の節目になった日はたくさんある。

その中でボクにとって最も感慨深かった日は、と問われれば、2004年6月20日と答える。

毎年年末の最終日に会社で納会をし、納会が終わって帰宅するときはいつも、

『今年もこれで終わった。色々あったが、今年もがんばったなぁ』と、思いながら帰った

ものだ。

2004年6月20日、帰宅の途中の感慨、高揚感は、とても年末の比ではなかった。

表現できないくらいの開放感に浸りながら、帰宅したことをよく覚えている。

勤務していた富士通の規定では1~6月までの誕生日の者は6月20日が定年退職日

決められていた。従って、4月生まれのボクは、6月20日退職組であった。

この日の朝は、もちろん特別な思いで通勤電車に乗った。最も思いが強かったのは

『もう明日から、この時間に、この電車に乗ることはないんだ』ということであった。

お昼は仲のよかった仲間の部長が送別にフランス料理をご馳走してくれた。

前日までバタバタしていたため、まったく机の上や引き出しの中が片付いていなく、

午後大急ぎで片付け、ダンボールに必要なものを詰めて自宅へ送る手配をした。

お世話になった社内・社外のたくさんの方々に退職の挨拶メールを送ったのも

午後だった。

就業後、みんなが集まってくれて挨拶する時間となった。

その時びっくりすることが起きた。Photo

会社の仲間からの花束とは別に      

大きなバラの花束を渡された。

誰からいただいたものかわからず、

付いていたカードを見た。

花束は松山から届いたものだった。

名前を見てすぐ、『あぁ、あの人だ』と

気がついた。

以前から知り合いの松山の女性のTさんが主宰したイベント「バリアフリーを目指した

情報社会を考える」で「シニアとIT」をテーマに講演を頼まれ、退職1週間前に松山に

行った。

そのときTさんに、「実は来週金曜日に定年退職します」と話したら、Tさんから

「何年勤めたんですか?」と聞かれ、「39年です」と答えた。

Tさんから届いたバラは39本だった。

いただいたお花を持って、みんなで写真を撮って、定年退職の儀式は終わった。

「お花をどうしましょう? 箱が大きいので宅急便でお宅に送っておきましょうか」と

言われたが、送るのは申し訳なく、もちろん持って帰ることにした。

雑件がいろいろ残っていて、結局会社を出たのは10時過ぎていた。

こうして、人生で最も感慨深かった記念すべき定年退職の一日が終わった。

そして、翌日から、”定年バンザイ  \(^o^)/”の毎日がはじまった。

2014年6月18日 (水)

シドニー駐在時代の思い出(4)

今回は着任したころの仕事の話を。 

1974年当時、富士通オーストラリアはシドニーに本社があり、支店はメルボルンと

ブリスベーンの2ヶ所だけだった。 

従業員数は100名少々だったのでは。 

ところが今や富士通オーストラリアは、オーストラリアとニュージーランドに40拠点、

オーストラリアではIBM、HPに次ぐ第3位のIT企業となり、売り上げ12億ドル(約1000億円)

従業員5千人、押しも押されぬIT大企業に成長している。まさに隔世の感。 

当時の話に戻して、31歳のボクはシステムエンジニア(SE)として赴任した。 

着任したときのSE部門のボスはグラハム・グリムスデールという人だった。 

若輩者なのに、富士通のSE部門を代表してきているという意識で、相談できる人もいなく 

問題をひとりで背負い込み、おまけに英語、1年間くらいはストレスがたまりぱなしだった。 

当時国際電話は高いので、必要なとき以外かけるなと言われていて、電話するときは

駐在員の代表に話し、許可をもらい電話をすることが慣習になっていた。 

当時日本ではまだ国際電話はKDDに申し込んでかけていた時代だったため、日本からも 

よほどのことがない限りかかってこなかった。 

そんな中かかってくる電話のほとんどは上司の部長から。

用件はほとんどの場合「報告がない、どうなっているのか」の叱責だった。 

今でもはっきり覚えているのは、ボスのグラハム・グリムスデールが辞めると伝えたことに 

対し、「何故辞めるのか聞いて報告するように」との指示だった。 

辞めるのはグラハムの事情なのだからとは思ったものの部長指示なので絶対である。 

グラハムに聞いてその答えが何であったかは覚えてないが、会社はまだまだ混沌とした

状態だったので、きっと先行きを懸念し、嫌気がさしたのではないかと思う。 

東京とのやりとりは電話は緊急時しか使えなかったし、当時はまだ世の中にファックスが

なかった時代。連絡手段は専ら手紙かテレックス。

毎夕東京にテレックスを打っていた。全部ローマ字。打つのも大変だが読むのも大変。 

丁寧な表現で打たないとと思うと、ついつい文章が冗長になっていた。 

昼間はテレックスは部署の女性に打ってもらっていた。ローマ字ではあるものの、暗号の 

ような長い日本語の文章を毎日打たされ、それが嫌だと言い、辞めていった女性もいた。

着任時の社長は富士通から来たIさんだった。

豪放で太っ腹なIさんは現地の人たちにも受けがよかった。

Iさんは注文が取れると毎回参加できる人たちをボードルームに集め、担当営業マンの

受注を祝い、みんなで乾杯してワイワイおしゃべりすることが慣習になっていた。

当時お客さまの多くは計算センターだった。

まだコンピューターを導入する会社は限られていて、コンピューターのない会社は

給与計算ほか一般事務処理を計算センターに委託していた。

計算センターはCOBOLと呼ばれた事務処理言語でプログラムを作り、計算センターの

お客さんは処理するデータをセンターに持ち込み、日次・月次処理をセンターに頼むという

のんびりした時代であった。

そのためCOBOLで同じことができるコンピューターであれば、たとえメッセージが

日本語で出てくるコンピューターであっても、安ければいいということで、富士通の

コンピューターを計算センターは買ってくれた。

売りはじめたころのコンピュターは、メッセージは日本語で出てくる、マニュアルは誤訳が

珍しくないなど、とにかく酷かった。

オーストラリア人は生来鷹揚なので多めにみてくれて、とてもいい時代だった。

営業マンの報酬は当然コミッションベースだった。

そのため、以前いたコンピュータ会社で売ったお客さんを富士通にひっくり返して

コミッションを受け取り、また別のコンピューター会社に転職するというキャリアパスは

珍しくなかった。そのたびに乗っている車のグレードがだんだん上がっていくことは

よく話題になった。

今でこそ日本でも珍しくない在宅勤務は40年前オーストラリアでは既にやられていたし、

節税対策のために特殊な契約勤務形態も認められていた。

とにかく、30歳過ぎのボクにとって、公私ともどもびっくりすることやカルチャーショック

だらけのオーストラリアであった。

2014年6月13日 (金)

またまたケータイ トラブル

昨日午後、銀行へ行ったあと本屋に寄ったところでケータイがないことに気がついた。

ポケット、バッグ何度探しても見つからない。

遺失物届を出すため駅前の交番に行った。

お巡りさんは「このあたりで落としたのであれば、届けはあまり期待できないのでは」

そのあとすぐ、先ずは不正使用を止めてもらうため、ソフトバンクに行った。

数日前、カミサンはガラケーからスマホに替えた。

ボクも「次はスマホかなぁ。ただ、メールが送れ電話ができ、写真が撮れれば、外でネットを

使う必要性はそんなに感じないので、新しいことを覚える億劫さを考えれば、どうかなぁ」

と思っていた。

出てこないであろうと思い、とにかく一刻も早くケータイを手に入れないと心配だし、

ボクと通信をしようとする人たちに悪いので、ソフトバンクの係りの人に「いままでの

ケータイは使用不能にしてもらい、機種変更で新しいガラケーを購入することにしたい」

と話した。

実はケータイを落としたのは2度目。

前回は3年前に落とし、結局出てこず、今回同様なくした日に機種変更で新しいケータイを

手にいれ、そのケータイをまた落すという大ドジである。

機種変更するために必要な費用は来月2千数百円の請求がくるだけで、新しいケータイは

無償でもらえた。

前回なくしたとき、とにかく苦労したのは、アドレス帳がなくなったためアドレス帳の修復

作業であった。

アドレス帳に登録していたと思われる人たちに電話とパソコンでメールを送り、ケータイの

アドレスを教えてもらったが、もちろん全員のアドレス修復はできなかった。

その大変さがわかっているので、また失くすか水に落とすこともあるのではと思い、

ソフトバンクの提供するサービスであるアドレス帳のサーバー保存と更新サービスを

たしか月200円くらいで契約し、あわせてバックアップ用にマイクロSDカードを買った。

機種変更の手続きをしている最中、びっくりすることが起きた。

何とボクの落したケータイを拾った方からソフトバンクのお店に電話がかかってきたのだ。

お礼を言いたくてソフトバンクの係りの人に「電話を代わって欲しい」と言ったが、相手の方は

電話を代わること、名前を名乗ることを拒否し「明日、そちらの店に届けますから」で電話は

切れた。電話の主は男性だったとのこと。

今回はアドレス帳は修復できるであろうが、受信・送信メール、写真などなくなっては困る

情報がいろいろあるので、戻ってくることでホントにうれしく、これから届けてくださる方に

感謝感謝である。

帰ってカミサンに話すと「一度でなく二度もそんなことをするなんて、信じられない。

特にポケットに何気なく入れること、フッとどこへでも置くことはもう止めないと」とさんざん 

言われた。

今日は13日の金曜日。ボクにとっては昨日がまさに13日の金曜日だった。 

今回の失態で新しいガラケーになったため、スマホへの道は一層遠のきそう。

2014年6月 9日 (月)

娘のブログから

沖縄に住む娘が、工房を借りてオリジナルなお菓子や瓶詰を作っていることは何度か 

ブログに書いた。 

瓶に書かれた「琉Q」は、セルプセンターというところがデザイナーを起用して作ったブランド。

商品のパッションフルーツバターは「琉Q」ブランドの製品ラインアップのひとつとして

娘が開発したもので、那覇空港や東京のショップなどに置いてもらっている。

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かつてはひとりで、作りから出荷まですべてをやっていたようだが、今ではとてもひとり  

では出来ない量になってきて、お友だちに手伝ってもらっているようだ。  

やっていることをちゃんと教えてくれないので、「~のようだ」になってしまう。  

その娘のブログの検索数がこのところ上がってきており、何故だろうと思っていた。  

カミサンの「これじゃないの」に納得。 

最近、パッションフルーツバターに次ぐ第2弾商品「琉球ラムネ」をお友だちの会社、

ビンfoodから発売をはじめた。

それがJTBのフリーペーパーで取り上げられ、結果ブログの検索数が増えたようだ。 

先ほど見たら、Exciteブログに登録されている沖縄関係ブログ2357件中、52位に 

なっていた。

琉球ラムネ増産中」とのタイトルで、先日ブログに書いていた。  

話を聞きたくて昨夕、フェイスタイム(スカイプ)をつないだ。  

商品の話になると「企業秘密」と言われ、細かくは聞けなかったが、琉球ラムネの 

出荷先もどんどん増えてきているようである。  

新商品の構想を練っていると言っていた。  

動画と声が出るフェイスタイムで、夕食の終わった孫たちが最近の話をしてくれた。  

そのうち「お勉強時間だから切るよ」と言われ、楽しい時間は終わった。

2014年6月 8日 (日)

シドニー駐在時代の思い出(3)

今回は家族のことを。

当時、富士通では家族の渡航は本人の渡航3ヶ月後と決められていた。

結婚4年後、カミサンも若く、子供たちも小さく、3ヶ月の別居は耐えられなかった。

ネットはもちろんないし、オ-ストラリアの生活面を紹介した本も探したが見つからなかった。

オーストラリアがどんな国かよくわからないまま、3年間、先ずはひとりで赴任することになった。

何を持って行けばいいのかわからない。例えば、こたつは持って行った方がいいかどうか、

ラジオを持って行って日本語放送が聴けるのかどうか、いろいろ悩んだ。

どんな家に住むのだろうか、車なしには生活はできないのだろうが、車はどのような車を

どのようにして買えばいいのだろう、などなど、とにかく40年前のオーストラリアは未知に

近い国だった。

幸いなことに、現地には頼れる人がいた。

当時、富士通は会社そのものが海外ビジネスにはまだまだ経験がなく、そのため商社の

日商岩井に支援してもらい、シドニーの事務所には、ビジネス経験豊富で奥さんが

アメリカ人のMさんがいて、大変助けられた。

家は前任者が住んでいた家をそのまま借りることにした。車はMさんの助けを借りて

着任早々トヨタの中古車を買った。

住んだ家は下の写真の家。

この写真は3年前、カミサンと娘と孫娘5人でオーストラリアに”センチメンタル・ジャーニー”と

称し行ったとき、探しあてて撮った写真。

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家はまったく変わっていなかった。

この家には1年半くらい住んだが、いろいろ思い出がある。

石の坂道を上がり入った玄関の右にベッドルームがあり、左にリビングルームがあった。

玄関からまっすぐ進んだところにキッチンがあり、キッチンの奥に裏庭に出るドアがあった。

家のオーナーは外務省に勤めていて南アフリカに駐在中と聞いていた。

とにかく家材道具はすべてそのまま置いて行き、貸家にした家だった。

キッチンの引き出しにはスプーン・フォークからお皿までそのまま置いてあった。

裏の庭がすごかった。借りていた前任者から「裏庭には何がいるかわからないので

奥の方には行ったことがない」と聞いていた。そんなバカなと思ったが、その通りだった。

たくさんの木々でうっそうとしていて、怖くて奥の方までとても行く気にならなかった。

この家には家族が来るまでひとりで3ヶ月住んだ。

ひとりでいたとき一度仲間と一緒にホラー映画のエクゾシストを観に行ったことがある。

その夜、ひとりで大きなベッドで寝たときの怖さは今でもしっかり覚えている。

家族は予定通り3ヶ月で来た。

カミサンは3歳と1歳の子供たちを連れて、ボクと同様、途中マニラで降り、給油後

同じ飛行機でシドニーに来た。当然小さい子供たちを連れての道中は大変だった。

着いた日の朝、シドニー空港に出迎えに行くときの高揚感は今でもはっきり覚えている。

家族が来たらやりたいことがあった。

それは会社の現地の仲間に家族を披露すること。

そのため、英語がまだまだの状態ではあったが、うちに仲間をカップルで招待する

ことにした。

もちろん初めてのこと。どうやっていいかわからず、仲間に聞きながら準備した。

当日、7~8人の仲間が奥さんを連れてきてくれた。

大変だったいろんなことを思い出す。

9月終わりだったので、シドニーはまだ冬。

先ず、カップルが来てピンポンしたら、当然玄関に迎えに出ていく。

ほとんどの奥さんがコートを着ていた。

「Tak、奥さんのコートを後ろからとって、受け取れ」

リビングで立食スタイルにし、カミサンが部屋の各コーナーに用意した日本食を置いた。

ビール、ワインなど飲み物はどのように冷やしておけばよいか予め会社で聞いていた。

氷をたくさん買ってきて、バスタブで冷やすようにとアドバイスされた。

当日は、ほかにもいろいろアドバイスしてもらった。

「まず何を飲むか聞くこと」、「用意した料理を簡単に説明すること」

「飲み物がなくなったら何を飲むか尋ねること」、「英語ができないことは気にするな」

みんなが帰ったのは11時回っていたと思う。

とにかくメチャメチャ疲れた。

終わったあと、カミサンとそれぞれを撮った疲労困ぱい状態の写真が残っている。

こうしてやりたかったことは出来たが、シドニーに着いたばかりのカミサンには大変な

思いをさせてしまった。

2014年6月 4日 (水)

シドニー駐在時代の思い出(2)

(1)を書いたまましばらく中断していた「シドニー駐在時代の思い出」、続編を何回かに

分けて掲載したい。 

あらためて書くと、駐在したのは31歳のとき、1974年から77年までの3年間。 

もう40年前のこと。 

駐在後、おそらく30回以上出張で行ったオーストラリア。第2の故郷と言える国。 

駐在した当初の思い出は、とにかく英語で苦労したことばかり。 

当時の部長に「行かせて欲しい」と願い出て、部長から「英語は大丈夫か?」と問われ、 

「大丈夫です。大学受験で勉強しましたから」と答え、「わかった」とOKしてもらった。 

駐在前、英語をしゃべった機会も、聞いた機会もほとんどなかった。 

現地に行って、受験勉強の英語が通用しないことは、もちろんすぐわかった。 

これはダメだ、至急何とかしなければと認識するには時間はかからなかった。

即やったことは、仕事が終わった後、国か州がやっていた移民相手の夜間英語学校に

通うこと。テキストだけ買えば授業料は無料だった。 

今はたくさんのアジア人がいるコスモポリタンな街になってしまったシドニーは、40年前は 

アジア人といえばわずかな数の日本人だけだった。街でアジア人に出会えば、まず日本人

だと教えられ、会釈すると必ず会釈が返ってきた。 

英語学校には英語を母国語としないさまざまな人種が集まっていた。 

当時よく聞いたのは魚屋はギリシア人、八百屋はイタリア人だった。 

中心はもちろん白人のアングロサクソン。

74年のちょっと前までオーストラリアはWhite Australian Policy(白豪主義)が国是となって

いて、白人中心の極めて排他的な国だった。 

特に第2次世界大戦で敵国であり、敗戦国だった日本人に対しては、今ではとても考え 

られないほど厳しかった。 

夜間学校に話を戻す。新しい生徒がクラスに入ってくるたびに、先生が前に立たせて 

自己紹介をさせる。そのあと必ずDo you speak English?と聞く。入ってくる日本人はほとんど 

全員Noと答える。イタリア人やギリシア人の多くはYesと答える。 

教室では文法も教わった。文法の授業になると日本人は俄然強い。 

日本人は現在完了形なってお手の物。ところがイタリア人やギリシア人はチンプンカンプン。 

だが、彼らはしゃべりだしたらスゴイ。日本人は当てられなければしゃべらない。それも

遠慮がちに。

言葉を習得するにはイタリア人やギリシア人のようでなければならないと痛感した。

当時仲の良かったアルゼンチン出身の仲間から言われたことを今でも覚えている。

彼はラテン系の人間だったこともあり、「すばらしい、すごいを表現するときはいろんな

言葉を使ってオーバーに言え」 「日本人はGoodしか言わないがそれじゃダメ。例えば

”Fantastic! Marvelous! Unbelievable! Great! Amazing!・・・”など、恥ずかしがらずに

オーバーに言え」と教わったのを今でも思い出す。 

夜間学校には、たぶん3か月くらいしか通わなかった。 

学校で文法を勉強しなくても、文法はわかっているし、会社に行けば回りはみんな現地人。 

その気になればいくらでも英語を話し聞くことはできる。 

それよりコンピューター関連の言葉と言い回しを覚えなければと思い、毎晩家で英文の 

マニュアルと和文マニュアルを対比させながら自分用の辞書を作ったのもこの時期だった。 

また、社内の掲示板をじっくり読んで表現や言い回しを覚えるように努めた。 

最初のころは、英語を聞き、しゃべるのに波があった。 

午前中は理解できても、午後になるとダメだったり、理解できる相手、できない相手が 

はっきりしていたり、男性より女性の方が理解できたりなど、毎日のように波を感じた。 

言葉は、しゃべる、聞く、書く、読むの4つ。 

人によりさまざまであろうが、ボクの場合、それなりに自信がつくまでに2年かかった。 

しゃべるのは一番最初にできる。とにかく知っている言葉を並べればいいので。 

聞くのはしゃべるの次にできるようになる。書くは一番難しい。スペルはもちろんのこと、

形式、表現力、文法、言い回し、あらゆることが相まってはじめてできるようになる。 

ボクの経験では、それなりに書くことができるようになったかなぁと思うようになった 

タイミングで脱皮できたような気がした。 

シドニー駐在時代の思い出、40年前のことではあるが書き出せばいくらでも書けそう。

ほどほどにしてしておきますので、興味があればお付き合いください。

2014年6月 1日 (日)

「選ばれるまち・横須賀」になるために

金曜日、表題のパネルディスカッションに参加した。

以前ブログに書いたが、横須賀市は昨年、転出数マイナス転入数が何と全国一だった。

そのため、このパネルディスカッションの副題は「転出超過数・日本一からの挑戦」

脱出ではなく、挑戦にしたのは前向きでいい。

名誉挽回に向けて、市の取り組みがここにきて明確になってきた。

目指すは、20~40歳代の子育て世代から「選ばれる町」に。

その一環で、先月「こども政策アドバイザー」として、横須賀市とは無縁の各分野の

専門家3名を選び(任期来年3月末まで)、助言を政策に活かすことがねらい。

3名の専門家は、待機児童対策に取り組む認定NPO法人代表、企業の働き方の

見直しに取り組む会社の女性社長、乳幼児の心理・行動を研究する大学教授の3名。

金曜日、アドバイザー3氏と市長によるパネルディスカッションが行われた。

200名以上の参加者があり、パネルディスカッションは大いに盛り上がった。

冒頭、吉田市長が数字を中心に現状を説明し、市として取り組む3つの政策を披露。

①子育て・教育環境のさらなる充実、②不動産環境のさらなる充実、③都市イメージの

創造発信。

「子どもが主役になれるまち 横須賀」を統一メッセージにするとのこと。

事前に市の職員から、横須賀全般ならびに市のかかえる問題について説明を受け、

市内を見て回った3人のアドバイザーの主な意見・コメントは、

 ①これまでまったく縁のなかった横須賀を知り、考えていた以上にすばらしい都市

  環境の町であると思った。海・山の自然環境、地場産の食事情、温暖な気候、

  都心から1時間のロケーション。

 ②ターゲットとなる20~40歳代の子育て世代について。

  現在住んでいるこの層の人たちの79.4%が市内に住み続けたいと考える一方、

  転入者の中ではこの層の人たちが特に少ない。

  偏に横須賀の良さのPRができていないところに問題がある。

  ”もったいない、横須賀”という印象を持った。

  とにかくやるべきことは、効果的な情報発信。

 ③子育て世代の最大の関心事である教育について。

  保育所待機児童数は近隣市の中で最少の35名。一層低減させていってほしい。

  小児医療費助成の拡充、学力向上放課後教室の拡充、児童養護施設の学習支援

  など的を得た施策が打たれている。米軍基地と連携し、英語教育の一環で基地内

  留学は出来ないものかというアイディアも出た。

転出超過問題は、先週日曜日にも意見交換会があり参加した。

主催は前々回の市長選に立候補し破れた弁護士のGさん。

横須賀を的確にPRするキャッチコピーが必須であることを、意見として述べた。

市では電車などへの交通広告、企業へのダイレクトアプローチをしようとしている。

効果的な情報発信を通し、多くの人に素の横須賀を知ってもらいたい。  

 

 

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