母、逝く
22日土曜日の夜中12時ころ郷里の倉敷の弟から電話があった。
「入院しているオフクロが危ないと病院から連絡があり、これからすぐ病院に行く」
心配で寝られないでいると1時前に再び電話がかかってきた。
「オフクロが亡くなった。看護師さんが11時に巡回したときは特別問題はなかったが、
12時過ぎに見に行ったら、息絶えていた、とのこと」
その後、2時ころあらためて弟から電話があり「25日火曜日が友引なので、明日朝
斎場と住職に連絡するので、明日早めに帰ってきて欲しい」ということで、真夜中の
電話は終わった。
その後、おふくろのことがいろいろ脳裏に浮かび、眠れなかった。
弟から聞いた様子から想像するに、きっと最期は苦しむことなく、独りでこと切れた
のであろう。それだけがせめてもの救いだと思った。
93歳のおふくろは、3年前老人ホームに入所し、職員の皆さんに心こもる世話をして
いただき、日々穏やかに過ごしていた。
23日日曜日、ばたばた準備し、飛行機より早く着きそうな新幹線に乗り倉敷へ向かった。
倉敷駅からタクシーで、この日が来ることを考え、弟・妹と何度か相談に行った斎場へ。
既に湯せんが終わり、棺に入っていたオフクロに会う。
きれいに化粧してもらっていて、今にも目を開けるのではないかと思える顔を見、
17年前に亡くなったオヤジのところにとうとう行けるかと思うと、涙がこみ上げてきた。
「家族葬で送ろう」と以前から弟と妹と決めていた。
そのため、弟が責任者である会社から誰も参列なく、兄弟妹と孫たち、ひ孫、それに
いとこにあたるオフクロの妹の子供夫婦、総勢15名くらいのこじんまりした通夜、
告別式だった。
祭壇の供花も子供一同の一対のみ。
喪主はずっと両親の面倒をみてくれた弟に、ボクは通夜、告別式で挨拶をした。
両親から聞いたことはなかったが、長男のボクが生まれたのが1943年4月だから、
両親が結婚したのは1941年だったのだろう。
これまた話を聞いた記憶はほとんどないが、まさに戦争が勃発した時期であった。
挨拶では、思いだしながらオフクロの思い出を話した。このときも涙がこみ上げてきた。
通夜、告別式とも、お世話になっていた施設の方々が、7~8人来てくださった。
3年間、何度も何度もオフクロに会いに行った施設の方々とは顔なじみになった。
また、明るく、おだやかに振舞うオフクロは職員の方たちの間で人気者だった。
告別式のあと、市の郊外にある火葬場に行き、斎場に戻ってきて会食をし、送りは
滞りなく終えることができた。
93歳と高齢ではあったものの、3日前はまだ元気だったのに、と命のはかなさを感じ
ざるを得なかった。
とともに、いずれはその時期がくるボクの葬儀も、今日のような家族葬がいいと
下の写真は、年末年始に帰省した娘が沖縄の自宅に帰る途中、どうしても倉敷の
おばちゃんに会いたいと、子供たちを連れて倉敷の施設を訪ねたとき撮った写真。
よほどうれしかったのだろう、オフクロの笑顔がすばらしい。
日曜日の朝、倉敷に出発する前、娘に電話して、オフクロが亡くなったことを伝えた。
そのあと娘からケータイにメールが届いた、
「パパがいないのでおばあちゃんに会いに行けなくて、ごめんなさい。今朝子供たちと
一緒にわんわん泣いて、ユナ(妹孫)はおばあちゃんに手紙書いてたよ」
「こないだおばあちゃんに会ったのは7年ぶりだったけど、覚えていてくれてほんと
うれしかったし、しっかりお話ができてお別れできたのがせめてもの救い。
次いつ会えるかなぁって思ったら、帰るときは離れがたかったなぁ」
「私たちの分まで、おばあちゃんに手を合わせておいてね。でも今ごろ沖縄にも来て
くれてるかもね」
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