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2011年7月

2011年7月30日 (土)

ボランティア3日目

朝、仮設住宅に行く前、陸前高田市内の海沿いの道を通った。

震災発生後、陸前高田の海沿いの松並木が津波で根こそぎもっていかれた中、

一本の松だけが見事に残ったニュースが新聞、テレビで報じられた。

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テレビで再三見せられた、がれきの山を目の当たりにし、ショックを受けた。

がれきとひと言では片付けられない。まさに日々生活していた人たちの生活

そのものが、そこにはある。

がれきの山には、何百戸の家庭のかつての生活そのものが積み上げられている。

何度も何度もため息が出た。

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距離がそんなに離れていないにもかかわらず、流された家と残った家、無常さ、

非情さを何度も感じた。

また、話題になっている平泉は、陸前高田から50キロしか離れていない。

大船渡線のレールがなくなっている現場を見た。

電車は上の写真のガード下を通っていた。わずかなレールを残し、なくなっている。

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午後は仮設住宅のそばにある公民館に出かけた。

20戸の小規模な仮設住宅であったが、7年前に集落の人たちで積み立てたお金で

立派な公民館ができていて、公民館に皆さんに集まっていただいた。

42戸の小さな集落で、住民の仲が大変良いことが誇りであると話されていた。

集まりは今回で6回目。新潟の長岡から大雨の中、車で来ていただいた作業療法士

さんの指導のもと、アメリカンフラワーという手芸を皆さんにやっていただいた。

2011年7月29日 (金)

ボランティア2日目

NGOの事務所がある遠野から南へ50キロ、活動地である海沿いの町、陸前高田に

初めて入った。

町の中心部はほとんど跡形を残すことなく壊滅している。

朝先ず、医者・看護士・ソーシャルワーカーの人たちが集まっている連絡会に参加した。

精神的に厳しい状態に陥っている人たちひとりひとりの状況のレビューが行われた。

そのあと、小学校の元運動場に建てられた仮設住宅に移動した。

仮設住宅のそばのブルーシートのテントを使い、仮設住宅に住んでいる人たちに

集まってもらい、おしゃべり会をやった。

1週間前にもやったそうで、今日は10名くらいの方に参加していただいた。

ほとんどがシニアの女性。用意した飲み物とお菓子を食べながら、みなさん

いろいろ話をしてくださった。異口同音に津波に流されたこの地区がいかに

すばらしいところであったかが語られた。Cimg7480

2時間くらいでおしゃべり会は

終わり、次の仮設住宅に移動した。

こちらは、もとオートキャンプ場だった

場所。地震がなければ夏休みの

今ごろは多くの家族が楽しい時間を

過ごしていたはずの場所である。

仮設住宅からすぐ近くの施設に移動して、仮設の人たちに集まっていただいた。

今日のテーマはティシュボックスつくり。皆さん嬉々として楽しんでいた。

NGOのメンバーも一緒に参加し、ボクが一緒にやった女性はなんと97歳。

ちょっとお手伝いするだけでほとんど独力で仕上げた。

避難所から仮設住宅に移ると、孤立してしまう人たちが珍しくない。その意味で

今日やったおしゃべり会や集まりは大変有効である。

ただ、男の人の参加がほとんどなかったことが気になる。

2011年7月28日 (木)

ボランティア初日

10時半過ぎ、東京駅で東北新幹線に

乗り、3時間で新花巻に着いた。Ngo 

息子の友だちのMくんが駅に迎えに

きてくれて、遠野にあるNGO

事務所へ。

事務所のメンバーは3人。

事前にMくんから『雑魚寝で、いろいろ

ご不便をおかけするでしょう』との

メールをもらっていた。思いのほか事務所は広く、畳の間で寝られるし、シャワーも

あって、申し分ない。

NGO全体、それに陸前高田地区でやっている活動について説明を受け、明日の

活動予定をみんなで確認した。

沿岸地区の被災地支援を行うため、遠野市には多くのボランティアの活動拠点が

ある。Mくんがボランティアセンターへ案内してくれ、遠野の街を車で走ってくれた。

持ってきたパソコンが事務所内のWiFiネットにつながらず、これについても、Mくんが

ネットの設定をやってくれて助かった。

明日の作業の確認を行ったあと、 005 

Mくんが歓迎会をアレンジしてくれて、

NGOの他のメンバーふたりと4人で

居酒屋へ行った。

ほっき貝、サンマの刺身が美味かった。

ボランティア活動の初日はこんな感じで

はじまった。

2011年7月27日 (水)

明日から岩手の陸前高田へ

3泊4日で、岩手の陸前高田市に、「こころのケア」ボランティアで行くことになった。

地震直後から、義援金だけでなく現地に行って何かやりたいとずっと思って

いたものの、カミサンと娘夫婦から、『ガレキの処理はムリ』と言われていて、

傾聴ボランティアを考えていた。

息子の高校時代の仲間のMくんから、『NGOに入り、岩手で活動
している』と聞き、

『参加できないか』とMくんに相談し、陸前高田行きが決まった。

悲惨な、辛い、悲しい話をたくさん聞くことだろう。

傾聴のポイントはしゃべらないで、ただひたすら話を聴くことである。

傾聴に徹しようと思っている。

ゆるい毎日を過ごしている身である。

お役に立てるようであれば、一回と言わず、継続して活動に参加したい。

2011年7月26日 (火)

この時期恒例

我が家のお中元の定番は三浦メロン。

しかも行きつけの農園に行って、買って贈る。

10年以上、毎年夏のこの時期恒例になっている。

農園のお宅は遠い。我が家から25キロ離れた三浦半島の先っぽの城ヶ島に

近いところ。

毎年収穫最盛期の時期が違うため、今年も確認のため、日曜日に電話した。

電話に出たのは馴染みのおかみさん。

開口一番、『今年は連絡がないので、どうしたんだろうと、実はさっきも話してたの』

と言われ、『今年は行かないで、ファックスで注文を送ろうと思ってるんだけど』

と言うと、『いいじゃないの、1年に1度なんだから、顔を見せてよ』と言われた。

そこまで言ってもらえるのであれば、ということで今日行ってきた。

三浦半島の海沿いをずっと下っていく方向なので、心地よい風を受けながら、毎年

バイクで行くことにしているが、今年は車で行った。

海を見ながら、途中から三浦の野菜畑の農道を抜けて行く。

途中何ヶ所か好きな場所がある。左は海の見える入り江。バス停があるが、バスは

ほとんど通らない。右の畑では三浦大根と三浦キャベツの取り入れが行われていた。

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農園のお宅に行ったら、ご家族皆さんでメロンとスイカの出荷作業中。

おかみさんが、『今年は出来がいいよ』

おばあちゃんは今年も元気。83歳になったとのこと。ひ孫が高校生と聞き、

びっくり。

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ご家族皆さんとしばらく歓談して、今年もお土産にスイカとジャガイモをたくさん

いただき、『また来年』と言い、お宅を後にした。

2011年7月24日 (日)

ジャカランダの花

もう3週間前のことなので、旬をはずした話題。

ジャカランダという花木の名前を聞いたことがある人は、千人にひとりくらいでは

なかろうか。ジャカランダのことは何度もブログに書いた。

ジャカランダを初めて知ったのは、シドニーに駐在していたときだから、もう35年も

前のこと。以来夫婦でジャカランダのファンになった。

カルフォルニアに旅行したときもあちこちでジャカランダの花を見た。

オーストラリアは南半球なので咲く時期が日本と半年違い、11月中ころだった。

ちょうど子どもたちの試験の時期のため、子どもたちは嫌う花と聞いたことがある。

紫色の見事なきれいな花をつけるジャカランダはそもそも南国の花。

そのジャカランダの木が横須賀にあることを知ったのは、4年前。

場所は神奈川歯科大のキャンパス。ひょんなご縁で神奈川歯科大で、ジャカランダを

情熱と愛情を持って育てているW先生と初めてお会いしたのも4年前。

先生からジャカランダへの熱い想いを聞き、苗木を2本いただき、我が家の庭で

育てはじめたのは、3年前。

以来、毎年7月の初めになると大学に花のつき具合を見に行くとともに、W先生に

お会いし、我が家のジャカランダの育ち具合をお伝えし、ジャカランダ談義をする

ことが恒例になっている。

今年も7月5日に大学を訪ねた。既に花のピークは過ぎていた。

この木がメインの木で、キャンパスの中央にあり、樹齢は20数年。

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W先生は、他にもキャンパスの数ヶ所に植えていて、いつになるかわからないが

ジャカランダ並木を作ろうと考えていらっしゃる。

上左は5年、右は3年、下左は1年の木たち。下右は将来のジャカランダ並木。

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帰ってあらためて、我が家の3年の木を見たら、あきらかに愛情不足。

幹が細く、全体が弱々しい感じ。

W先生に『大きくなったら我が家の庭ではムリなので、キャンパスに移植させて

ください』と話したら、先生から『花が咲くまで頑張ってください』と言われた。

以来、場所を移し、水と肥料をやっているが、いつになったら花が咲くだろう。

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2011年7月20日 (水)

大学の寮の仲間の集まり

大学時代、寮で一緒に過ごした仲間の飲み会については何度かブログに書いた。

姫路で過ごした教養課程の1年半、かつての旧制高校の寮に住み、まさに同じ釜の

飯を食った仲間たちである。もう50年近く昔の話。

年に4回、有楽町の帝劇の下にある大学のクラブに皆で集まっている。

会の名前は、「白陵惜春会」。

名前の由来は、当時の寮の名前が”白陵寮”で、寮歌に”惜春の賦の流れきて・・・”

という一節があり、そのふたつを合わせて命名。

ボクは万年幹事。と言っても、やることはあまりない。

我々と1年先輩と1年後輩の41人がメンバーとなっているメーリングリストに

開催通知を流し、終わったら報告メールをアップするくらい。

飲み物、食べ物は人数を言っておけば、適当に見つくろってもらえる。

今年第3回目の惜春会が昨夜開かれた。

今回はスペシャルゲストとして、我々の6年先輩のKさんをお招きし、スピーチを

していただいた。

スピーチは寮生活の思い出と「白陵寮のマドンナ”チンクシャ”さん探し」について。

Kさんは寮長だった当時の思い出話を面白おかしく話してくださって、予想通り

大いに盛り上がり、大変楽しい会合になった。

冒頭、Kさんから「昭和35年卒業と40/41年卒業とは相当な環境の違いがある。

自分たちが入寮した昭和31年は、朝鮮動乱の景気とその反動の不景気を脱し、

経済白書に”もはや戦後ではない”と書かれた年だった。卒業した35年は

池田内閣の”所得倍増計画”が掲げられた年だった」

寮生活については、
 
 ・寝巻きの上にオーバーを着て授業に。目覚まし時計を持って試験に。

 ・36時間休みなしの麻雀卓、寮歌、ストーム、豪快な寮祭

 ・切実だった寮の食事問題(食事代は当時1日3食で100円)

などなど、寮生活を彷彿させる思い出話がいろいろ語られた。

主題であった「チンクシャさん」は、昭和24~34年の10年間、寮務室に勤務

されていた女性。我々が入寮する10年以上前のことであったが、チンクシャさんの

ことは語り草となり先輩から聞いていた。

Tさんは旧制の女学校を出てすぐ寮に勤務されたそうで、いまお歳は80歳過ぎ

だろうとのこと。

K先輩ほか関係者皆さん八方手を尽くして「ちんくしゃさん」探しをされたものの、

いぜんとして消息不明。

大学の機関誌にも尋ね人の記事を出し、反応はあったものの、肝心の手がかりは

つかめずじまい。

ちんくしゃさん探しについては昨夜もいろいろアイディアが飛び出し、議論百出。

締めは全員で白陵寮寮歌を吟唱。

最後はKさんを囲み記念撮影し、5時にはじまった会食は8時半にお開きに。

2011年7月19日 (火)

へーっと思う数字、いろいろ

以下、先日の新聞の受け売り。

昨秋の国勢調査の抽出速報によると、家族構成では独り暮らしが31%に達し、

とうとう首位になった。典型だった「夫婦と子ども」は29%、「夫婦のみ」は20%。

独居の高齢者や未婚者が増えた結果、世帯数は5千万を超え、家族の人数は

平均2.46と最少を更新した。

65歳以上の人口比は23%で世界一、15歳未満の割合は13%で主要国の最低。

人類未体験の少子高齢化に伴い、社会保障の破綻、老老介護、孤独死と不安の

種は尽きない。

片や、未婚が増える背景には厳しい懐事情がある。20~39歳の未婚者のうち、

男性の83%、女性は90%が結婚を望みながら、経済的な不安からためらう人が

多い。男性には「年収300万円の壁」があった。

独り暮らしの気楽さは、加齢とともに心細さにすり替わる。震災に教わるまでもなく、

近所での支え合いに救われることもあろう。独居1600万人の時代、頼りは血縁より

地縁かもしれない。

   ~~~~~~   ~~~~~~   ~~~~~~   ~~~~~~

示唆に富んだ指摘がいろいろある。

さしずめ我が家は、20%の「夫婦のみ」家庭で、うちひとりは人口比23%の65歳

以上家庭だ。

一方、15歳未満の割合は13%。

あらためて知り、この数字に驚愕をおぼえる!

10年後、どうなっているんだろう、この国は。

2011年7月16日 (土)

映画「127時間」

定年してから映画はかなり観た。

正確に数えたことはないが、おそらく70~80本は観ただろう。

観る映画は評をみて決める。この作品「127時間」も評に誘われた映画だった。

ただ、興行的に難しいためなのか、横須賀では上映されず、桜木町まで観に行った。

渓谷の断崖に腕を挟まれ動けなくなった男性アーロン・ラルストン氏の実体験を

もとにした原作「127時間」を映画化したもの。

落石に運命を決められた瞬間から、生命の限界を迎えるまでの127時間、死の

恐怖に直面し、絶望の底で“人生”を体験する。

映画の大半は、岩に挟まれた主人公の試行錯誤と独白で進む。アーロンの渇き、

痛み、焦燥が観る側にありありと伝わってくる。

極めて限られた被写体を対象に、1時間40分の作品に仕上げた発想と力量には

すごさを感じた。

以下、ネットから引用したあらすじ。

   ~~~~~~   ~~~~~~   ~~~~~~   ~~~~~~

タフなヒーロー気取りで人と深く関わらずに生きてきたアーロン・ラルストン。開放的な

陽気さとクールな一面を合わせ持つ魅力的な青年。ある金曜の夜、彼はいつもの

ように1人でロッククライミングを楽しむため、慣れ親しんだユタ州、ブルー・ジョン・

キャニオンに向けて出発する。それは彼にとってどうということのない週末の過ごし方

だったが、突然、過酷な運命が襲い掛かる。

落石に右腕を挟まれ、狭い谷底から一歩も動けなくなってしまったのだ。助けを求める

叫び声は無人の荒野に虚しく響き渡る。

知識と経験を総動員して岩を撤去しようとするが、ガッチリと挟まった岩はピクリとも

動かない。死を目前にして初めて自分の人生と向き合うアーロン。自分勝手に生き、

両親にも、友達にも、恋人にも決して心を開かなかった。衰弱してゆく身体を引き裂く

ように襲い掛かる後悔、それと同時に湧き上がる“生きたい”という生への執着と情熱。

そして生命の限界を越えた127時間後、遂に彼は、ある”決断”を下す……。

2011年7月12日 (火)

孫たちとの旅(メルボルン)

アデレードのあとメルボルンに移動し、6泊した。

アデレードからメルボルンは飛行機で1時間45分。

メルボルンには朝9時半に着き、すぐネットで予約していたレンタカーを借りた。

泊まった宿へは、空港から迷いながら1時間くらいかかった。海岸に近いブライトン

という街にあるコンドミニアム。

キッチン付きの2ベッドルーム、5人家族にはぴったりの宿だった。

半年くらい前、キャンペーンをやっていたときネットで予約したため格安だった。

毎晩、孫たちが歌や踊りの発表会をやってくれた。

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ブライトンはメルボルンの中心から車で40分。ベイサイドのとても雰囲気の良い

リゾートっぽい街だった。海辺には大きな高級住宅が並んでいた。

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滞在中、車であちこち出かけた。

先ず孫たちに見せたかったのは、夜になったら浜辺に上がってくるフィリップ島の

ペンギンパレード。フィリップ島までは宿から140キロあった。

暗くなって、子どものために餌を取って  Cimg7277 

巣に戻ってくるペンギンの親たちの

行列を見物する。ボクは2度目だった。

健気に一心不乱に巣に戻るペンギン

たちがとても可愛い。

ただ、写真撮影は禁止のため、

残念ながら掲載できる写真はない。

ペンギンパレードを観る前、フィリップ島で野生の動物パークに寄った。

カンガルー、コアラ、下の左は獰猛なディンゴー、右はタスマニアン・デビル。

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3日目と4日目は、宿から車で15分くらいのところにあり、たくさん乗り物のある

遊園地、ルナパークへ。2日続けて孫たちに付き合った。

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メルボルン植物園にも行った。街の真ん中にあり、広くてとてもきれいな植物園。

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宿から100キロくらい南にあるモーニントン半島、「ここに住みたい」と思うほど

すてきなところだった。

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先ず、観どころを聞くためビジターセンターへ。親切に教えてくれて、パンフレットも

色々もらった。

教えてもらった木の迷路の公園へ。

孫たちも大変気に入り、姉孫が『わたしがキャプテン』と言いながら先導し、

迷いに迷いながらやっと出口を見つけ、みんなでバンザイ。

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ラベンダーの迷路も面白かった。迷路の近くの林の木の上に木彫りの人形が20個

くらい隠されていて、見つけ出すゲームも楽しく、孫たちは走り回りながら探していた。

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こうしてメルボルンの1週間はあっという間に過ぎた。

日本に出発する朝は大変だった。

格安航空券のため、朝の出発時間が大変早く、6時20分。

早いのでレンタカーは前日返却。Cimg7334

国際線のチェックインは2時間前。 

空港まではタクシーで30分。

タクシーを4時前に予約したが

本当に来てくれるか心配だった。

3時半に再度確認の電話を入れ、

来てくれたタクシーを見てホッとした。

帰りのフライトは、もともとの経由地はゴールドコーストであったが、ケアンズに

変更になり、成田到着が関西空港着となり、道中ジェットスター便にはさんざんな

目にあった。

2011年7月 9日 (土)

孫たちとの旅(アデレード)

旅の4日目、シドニーから飛行機で2時間足らずの南オーストラリア州の州都

アデレードに移動し、5泊した。アデレードは行ったことのない街で、興味があった。

トラムとバスを使えば、街中は大体の場所には行けそうで、またホテルは中心部に

あったため、レンタカーは借りなかった。中心部の移動には無料のバスを利用した。

エキサイティングなことには縁がなさそうな、こじんまり落ち着いた街だった。

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娘は子どもたちを連れてバスで野生動物の放し飼いされたパークに行き、

カミサンとボクもそれぞれ別々に単独行動した日もあった。

街中のところどころにピアノが置いてあり、道行く人たちが自由に奏でていた。

街の中心部は、テラスと呼ばれる道路で東西南北四方が囲まれていた。

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3日目、トラムに乗ってアデレードの観光地として紹介されていたGlenelgという

ビーチに行ったが、人はまばらで、観光地という雰囲気ではなかった。

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4日目、アデレード郊外にあるドイツ人移民が開拓した街、ハーンドルフを訪れ、

半日バスツアーを楽しんだ。

ホテルのすぐ近くには大きなマーケットがあり、食料品を中心にさまざまなものを

売っていて、カンガルー肉の専門店も見つけた。木曜日はLate shopping nightで

たくさんの人たちでにぎわっていた。

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先日”信じられない出会い”で紹介したCharls McJuryに会ったのは、このマーケット

近くの路上だった。

3月25日は妹孫の3歳の誕生日だった。マーケットでチーズケーキとトッピング、

ろうそくを買って、食事を予約したタイレストランに持って行った。

店は大変混雑していたが、快く協力してくれて、ケーキの上に花火を飾ってくれ

みんなでハッピーバースディを歌い、すばらしい誕生祝いになった。

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2011年7月 7日 (木)

孫たちとの旅(シドニー)

今回のオーストラリアの旅のもうひとつの目的は孫たちサービス。

3歳と6歳を連れて、2週間、3ヶ所移動は予想通り大変だった。

ただ妹孫がベビーカーを卒業し、どんどんひとりで歩くようになっていたので助かった。

35年前シドニーに来た時、我が家の子どもたちは3歳と1歳。孫たちより小さかった。

シドニーではモーテルに泊まった。

土地勘がある場所で、スーパー   Cimg7052 

マーケットほか、車でどこに行くのも

ほとんど問題なかった。

モーテルの窓際に鳥が飛んできて

何度かとまった。

姉孫は毎日のように家族の絵を

描いて、窓ガラスに貼っていた。

3泊したシドニーでは、2日目、Cimg7047

駐在時代に子どもたちを連れて  

休みの日にたびたび行った

マンリー・ビーチへ。

娘のリクエストは海の側の水族館。

この水族館は当時はなかった。

翌日、これまた子どもを連れて

駐在中、何度も行ったことのある、タロンガ動物園へ。この動物園はシドニー湾が

臨める絶好のロケーションにある。写真正面はハーバーブリッジとオペラハウス。

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35年経った今、当時1歳だった娘、その子どもたちと一緒に同じ場所に来たことは

とても感慨深かった。

Cimg7064 Cimg7057 

コアラ、キリン、トラ、イルカショー・・・

孫たちは元気に広い園内を歩き回った。 Cimg7062

ヘビを見たときは、ふたりとも

怖そうに、それでもちょっと

触っていた。

翌日は、シドニー湾内を巡る

地元の人たちの足になっている

フェリーに乗った。

久しぶりに見るシドニー湾、海沿いに建つ瀟洒な家々、まさにシドニー。

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フェリーを降りて、オペラハウスの近くをぶらぶらし、海沿いのオープンスタイルの

イタリアレストランで食事をしたあと、フェリーに乗り、車を駐車した波止場まで戻った。

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2011年7月 4日 (月)

センチメンタル・ジャーニー

オーストラリアのシドニーに駐在したのは1974年から77年までの3年間。

35年以上前のことだ。ちょうど富士通が海外でコンピュタービジネスを手探りで

はじめたころだった。

ほぼ同じ時期にブラジル、スペイン、韓国、台湾、オーストラリア、シンガポール、

ユーゴ、ブルガリアなどで、色々な形態でビジネスをはじめた。

その中、オーストラリアでは現地の人たちを中心に、純国産コンピューターを売る

という、これまで経験したことのない、大胆なビジネスへの挑戦であった。

当時ボクは31歳。この挑戦のメンバーの一員に加わりたく、当時の上司の部長に

願い出て駐在が決まった。

駐在が終わり帰国したあとも、オーストラリアへは数十回出張した。

そのオーストラリアへ、カミサン・娘・孫たちを連れて、今回2週間旅した。

3泊したシドニーでは、どうしても行きたいところが何ヶ所かあった。

先ず、35年以上前に住んでいた家がどうなっているか見たかった。

一度引越したので、2ヶ所に住んだことになる。

どちらの家も、通りの名前は覚えていた。

最初に住んでいた家は、Weemala Road Northbridge

ゴルフ場のすぐそばにあったその家はゴルフ場を目標に、近くまでは迷うことなく

行けた。だが、車でぐるぐる回ってもWeemala Roadが見つからない。通りがかりの

年配のカップルに聞くことにした。ダンナがスマートフォンで、通りを検索してくれ、

すぐ近くであることがわかった。

いやー、見つかった! 当時とまったく変わっていない。家の中の間取りまで

しっかり覚えている。

Cimg7035 

そのあと、引越して移り住んだ2軒目の家を探した。

住所は、Ashley Street Chatswood 番号は思い出せない。Ashley Streetは比較的

簡単に見つかった。カミサンと、さあどの家だろうとAshley Streetの端から端まで

探した。間違いなくこの家だと思われる家を見つけた。その家は71 Ashley Street

うん、たしかにセブンティワンだった。この家もほとんど変わっていなかった。

車を降りて写真を撮っていると、通りがかった、いかにもリタイアした感じの男性が

車を停めて、話しかけてきた。近所に住んでいる人だった。

35年以上前にこの家に住んでいたこと、子どもが近くのバス停で幼稚園のバスに

乗って通っていたこと、当時となりに住んでいた家族のことなど、しばらく立ち話した。

Cimg7044  

家を見つけたあと、子どもたちが通っていた幼稚園を探した。

場所は変わってなかったが、当時広かった園庭は建て増しで、ぐっと狭くなっていた。

ミス・メイというおばあちゃんの先生に親切にしてもらい、大変お世話になった。

今ではシドニーはアジアの人たちがたくさん住むコスモポリタンな都市になったが、

当時は街中でアジア人を見ることは少なく、アジア人であれば、ほとんど間違いなく

日本人だと言われた。

そのような時代、ミス・メイは我々家族がきっと色々困っていることだろうと思い、

サポートしてくれたのであろう。

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幼稚園のあと、嫌がる家族を、『ちょっと見てすぐホテルにチェックインするから』と

説き伏せ、74年当時入っていた会社のビルを見に行った。こちらはすぐわかった。

41 McLaren Street Noth Sydney  番号含め住所はしっかり覚えていた。

Cimg7031 

シドニー初日、見たかったところはすべて見つけられ、大変満足した。

次回ブログでは、今回の旅のもうひとつの目的だった孫たちサービスについて。

2011年7月 1日 (金)

信じられない出会い

もう3ヶ月以上前の話。

孫たちの春休みを利用して、我々夫婦、娘と孫たちの5人で2週間、オーストラリアへ

旅行した。

東日本大震災から間もない時期だったため、行くことに大変気が引けたが、去年の

8月に飛行機、ホテル、レンタカーすべてを予約していたため、行くことにした。

オーストラリアの格安航空会社ジェットスターを予約していたため、時期が時期だけに

大変だった。

一番大変だったのは、オーストラリア人の乗員が成田へ来ることを拒否したこと。

そのため、行きの便も帰りの便も関西空港経由となり、旅行中は便の行き先や

出発時間、経由地が何度も変わり、振り回された。

シドニー、アデレード、メルボルンに2週間滞在した。

信じられない出会いはアデレードであった。

泊まったホテルの近くで、夜食事をしたあと、孫たちがアイスクリームを食べたいと

言い、アイスクリーム屋に寄り、近くの中華街をブラブラ歩きながらホテルに戻って

いたときのことだった。

突然、「Is this Tak?」と呼びかけられた。先ず、初めてきたアデレードで、ボクの

愛称で呼びかけられたことに、びっくり! 

呼びかけた男性は「Charls、Charls McJury」、と声をかけてきた。

信じられない出会いに驚き、たしかに、Charls McJuryであることを確認し、思わず

抱き合った。

チャールスは元富士通オーストラリアにいて、20年以上前一緒に仕事をした仲間。

『こんなところで、信じられない!』とお互いに言い、しばし茫然。

お互い簡単に近況を話し、チャールスから『みんなに知らせるので、写真を撮って

メールで送って』と言われ、暗い中、メールアドレスを書いてくれた。

チャールスは東京に出張で来たとき、お嬢さんと息子さんを一緒に連れてきた

ことがあり、そのとき我が家に遊びにきて食事をし、撮った写真が残っている。

そのときの話になり、『あのときの出張では2回週末があり、子どもたちにせがまれて

ディズニーランドに4回行った。今や娘は30歳、息子は26歳になった』

記憶に残るあの写真からすると、我が家に来たのは20数年前なんだ。

もし、いろいろなXXXがなかったら、あり得ない出会いだった。

もし孫たちがアイスクリームを食べたいと言わなかったら、もしチャールスが声を

かけてくれなかったら、もしどちらかがあの道の反対側を通っていたら、もし

チャールスが我々と同じホテルに泊まっていなかったら・・・

そのとき撮って、チャールスが昔の仲間たちに送ってくれた写真は↓

Cimg7861 

このときのオーストラリアの旅の目的は、ふたつあった。

ひとつは、1974年から3年間駐在していたシドニーの思い出の場所を訪ねる

センチメンタル ジャーニー。

ふたつ目は孫たちサービス。

動物園、遊園地、野生動物公園、ビーチ、ペンギンパレードなど色々なところに行き

アデレードでは妹孫の3歳の誕生日を祝った。

次回はセンチメンタル ジャーニーを紹介。

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