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2009年2月

2009年2月28日 (土)

映画「チェンジリング」

「硫黄島」二部作に続く、クリント イーストウッド監督作品。

主演は、先日惜しくもアカデミー主演女優賞を逸したアンジェリーナ ジョリー。

1920年代末期の実話にもとづく物語。

どうしても観たかった映画で期待して観にいった。期待以上の作品だった。

定年後、映画は30本以上観たが、その中でベスト。

2時間半の上映時間があっという間に過ぎたという感じ。

最近特に期待して観に行った映画がはずれだったことが多く、久しぶりに観た当たりの

アメリカ映画。

以下、作品紹介サイトから引用。

        ~~~~~~   ~~~~~~   ~~~~~~

1928年。ロサンゼルス郊外で息子・ウォルターと幸せな毎日を送るシングル・マザー

のクリスティン。だがある日突然、家で留守番をしていたウォルターが失踪。

誘拐か家出か分からないまま、行方不明の状態が続き、クリスティンは眠れない夜を

過ごす。そして5ヶ月後、息子が発見されたとの報せを聞き、クリスティンは念願の

再会を果たす。だが、彼女の前に現れたのは最愛のウォルターではなく、彼によく似た

見知らぬ少年だった。

誘拐された息子の生還を祈る母親の闘いを、当時の時代背景とともに描く、社会派

サスペンスドラマ。

平凡な主婦が、子供の行方をつきとめたい一心で腐敗した警察権力に立ち向かい、

真実を求めて闘い続ける姿を寡黙なタッチで描き出している。

綿密に時代考証されたセット、脇役の俳優一人ひとりまで行き届いたイーストウッド流

の演出を体感できる作品。

        ~~~~~~   ~~~~~~   ~~~~~~

ヒロインを演じるアンジェリーナ・ジョリー、さすがオスカー候補だっただけに上手い。

アンジェリーナは6人の子供の母親で、一番下のふたりは今のダンナのブラッド・ピット

との間の双子だそうだ。先日一家8人で日本に来たことがテレビで報じられていた。

全編を通しひたむきな「母性」が描かれていて、その意味でアンジェリーナははまり役

だったのだろう。

Changelingという英語は聞いたことがなかったので辞書で調べてみると、『取り替え子

(さらった美しい子の代わりに妖精が置いていくみにくい子)』との意味。

2009年2月25日 (水)

刑事裁判傍聴

去年11月、前橋裁判所に交通事故加害者の刑事裁判の傍聴に行った。

事故の遺族の知り合いの方に支援を頼まれたのがきっかけだった。

横断歩道を歩いていた高校2年生のお嬢さんを暴走車がはねて殺した事故であった。

被告は26歳の車関係の会社に勤めるサラリーマン。

警察の初動捜査が杜撰で、加えて最初に担当した検事が遺族の気持ちに思いを

馳せない検事で、不起訴処分になる可能性すらあった事案だった。

ただ、11月の公判を担当した検事は若くて正義感を持ち合わせた検事で、また

担当の裁判官も遺族の思いを汲んでくれそうな裁判官であった。

最愛の娘さんを突然亡くしたお母さんの意見陳述は涙なしには聞けなかった。

検察官が懲役1年8ヶ月を求刑し結審した。

2週間後に行われた判決公判は他の予定と重なり傍聴できなかった。公判当日の夜

お母さんから『禁固1年6ヶ月の実刑判決が出ました』との報告メールをいただいた。

その後、被告の男は量刑を不服とし控訴した。

昨日、第1回控訴審が東京高裁で行われた。

昨日の公判では、被告の本人尋問が予定されていた。

ところが、常識的には考えられないことであるが、被告本人は出廷しなかった。

被告弁護人は出廷しなかった理由の説明に口ごもり、結局、裁判官も理由を知らされ

ないまま閉廷した。

これまでたくさんの交通事故裁判を傍聴してきたが、こんなことは初めて。

遺族の弁護士も『こんなケースは初めてだ』と話していた。

群馬から遠路かけつけた亡くなったお嬢さんのご両親、それに高校生のお友達、

みんな肩透かしをくい、出廷しなかった理由もわからず、怒り心頭。

控訴したのは被告で、辛く悲しいのは遺族なのに、とやり切れない気持ちでいっぱい。

もちろん出廷しなかったことで、当然裁判官の心証は悪くなったことであろう。

許せないとの憤りを感じながら、法廷をあとにした。

2009年2月23日 (月)

娘夫婦からの誘い

昨日の日曜日、娘夫婦にカミサンの誕生日を祝ってもらった。

前から一度一緒に行こうと言っていたダンナの会社の先輩が12月にはじめた

和食処に招待された。Rimg0656

3時にふたりで横浜の娘宅へ。   

カミサンが大好きな姉孫のミサキが

楽しみに待っていてくれた。

ミサキがひとりでこっそり書いた

手紙をカミサンに渡していた。

『いつもありがとう みさきより』

みんなで車で大船駅近くの会食場所の”よねやま”へ。

オーナーの米山さんが、定年したらやりたいと長い間思っていた和食のお店。

オープンしたばかりで木の香りがするくらいホカホカ。厨房入れて33坪あるそうで広い。

大きな部屋を貸し切り状態で使わせてもらった。

テーブルの下に足を入れられるようになっていて、子供たちには好都合だった。

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料理は付き出しのマグロの小鉢からはじまり、娘から聞いていたとおり、美味しい

ものが次から次へどんどん出てきた。

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鴨の焼き物、サクラエビのてんぷらも美味だった。

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飛騨牛のホウバ味噌焼きにも満足。

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アンコウの入った海鮮なべ。締めは梅の入った熱々のサンマの太巻き(写真なし)。

あとはデザート。お値段もリーゾナブルで言うことなし。

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途中、米山さんが席に来て『お客さんの入りがまだ読めない。思っていたよりいろいろ

大変』。店を開くまでの熱い思いも聞いた。パパとは会社の話。

お店には5時に入り、出たのは8時半過ぎ。

いい調子で出来上がった娘夫婦を、飲まなかったボクが運転して娘宅まで送った。

  和食処”よねやま”  鎌倉市大船3丁目6-27  電話 0467-43-6880

2009年2月21日 (土)

この時期恒例

パソコン教室キュリオステーションの事業をはじめてから毎年この時期、所得税の確定

申告を税理士のFさんにお願いしている。年金、医療費なども一緒にすべてがお願い

できるので助かる。今回が4回目の申告になる。

準備した関係書類を持って、昨日六本木にあるFさんの事務所を訪ねた。

六本木に行くのであれば横浜から東横線なので、しばらく会ってない孫たちに会いたく

なって、横浜の娘宅に一晩泊めてもらおうと思い連絡したら、『どうぞ』ということで

木曜日の午後娘宅に行った。

今回も着くとちょうど、姉孫ミサキの幼稚園の送迎バスが着いたあとで、お友だちと

遊んでいたミサキに会った。幼稚園でも遊び、帰って来てからも公園でみんなと遊ぶ

のが楽しくて、この日も1時間以上遊んでいた。

妹孫のユナがしっかり顔を覚えて   Yuna

くれたようで、会ってすぐニコッと

笑ってくれたのがうれしかった。

ユナはつかまり立ちができるように

なり、お姉ちゃんが遊んでいた

手押し車が押せるようになっていた。

翌朝は10時に出て六本木へ。

Fさんの事務所は東京ミッドタウンのすぐ近く。

確定申告のこの時期、税理士は1年で最も多忙な時期。

Fさんとはこの時期以外ほとんど会うことがないので、聞きたかったことを色々聞いて

忙しい中、例年以上に時間がかかり、終わったら1時過ぎていた。

六本木交差点近くにはラーメン店が多く、事務所に行く前、昼は久しぶりにラーメンを

食べたいと思っていて、入った店のラーメンはなかなかいい味だった。

東京に出る機会が少ないので、行けば出来るだけ複数ヶ所寄ることにしている。

昨日は六本木のあと、地下鉄で麹町へ行った。

5月の中ころ、カミサンとオランダ・ベルギーへ旅行する計画を立てている。

そこで平河町にあるベルギー観光局に寄った。

一昨年ニュージーランドに旅行したときも事前にいろいろ確認したいことがあり、

ニュージーランド観光局に行き、貴重なアドバイスをたくさんもらった。

そこで、今回もベルギー観光局に寄った。

ニュージーランドのときもそうだったがChocolate

今回も椅子に座ることなく、立ったままで

話をした。ゆっくり座って話すと時間を

取られ仕事に支障をきたすということで

このようなスタイルにしているようである。

メモしていた聞きたかったことはすべて

確認できた。親切に説明を受けた上、

『寄っていただいた方には、いまベルギーのチョコレートをお渡ししています』と小箱に

入ったチョコレートをいただいた。

いろいろパンフレットや資料をもらったので、じっくり読んでしっかり計画を立てたい。

2009年2月18日 (水)

カンボジャの記憶

多くの方は関心がないであろうが、70年代のカンボジャで自国民の虐殺に関与した

ポル・ポト政権の元幹部らを裁く特別法廷の初公判が昨日プノンペンで開かれた。

その模様は今朝の新聞で報じられ、朝日新聞は先週3回の特集記事で大きく紹介して

いた。

カンボジャでは30年前の1975~79年政権を握ったポル・ポト派が極端な共産主義に

走り、自らの革命の敵と考え、知識人の処刑や都市住民の農村への強制移住、

強制労働、拷問、虐殺を繰り返し、犠牲者は国民の5人に1人の170万人にのぼった

と言われている。170万人と言えば、おおよそ鹿児島県の人口に匹敵する大変な数の

人たちである。

3年8ヶ月間続いたポル・ポト時代にカンボジャはめちゃめちゃに破壊されてしまった。

道路や橋の破壊は言うに及ばず、「人材の破壊」、「制度の破壊」が、カンボジャに

壊滅的な打撃を与え、その状態が今なお国全体に残っている。

ボクは定年退職直後に会社から頼まれ、JICAの仕事で2ヶ月間カンボジャに行った。

そのためカンボジャには相当思い入れがある。

行ったきっかけは、06年7月6日のブログ”あれから2年(1)”に書いた。

コンピュータメーカ3社から6名が派遣され、派遣目的は『アジアの中で最貧国である

カンボジャが今後社会インフラを整備・構築してゆく上で、情報通信技術をいかに

活用していけばよいかを調査し提言をまとめること』であった。

ポル・ポトのことは”あれから2年(2)”で書いた。

相当タフな仕事であったが、2か月で何とかみんなで報告書をまとめあげ、最後は

副首相にまで報告した。このことは”あれから2年(3)”に書いた。

特別法廷で裁かれる最初の人間は、プノンペンの町中にあったトゥール・スレーン

収容所の所長である。トゥール・スレーンはポル・ポトの残虐のあとを風化させない

ために今は博物館として一般に公開している。ポル・ポトが占拠する前は高校の

校舎であった。

2か月間カンボジャに滞在し、帰る前にどうしてもトゥール・スレーンを見ておきたいと

思い、帰国直前にトゥール・スレーン博物館を見学した。

ポル・ポトの残虐のかぎりを見せられ何とも言いがたい気持ちになったことを思い出す。

見学したことは、”あれから2年(8)”に書いた。

捜査に手間取り、法廷の運営方法も難航し、ポル・ポト政権の崩壊から30年経った

やっと今、真相の究明を目指し、虐殺の責任が司法の場で問われることになった。

法廷に拘束されたポル・ポトの幹部たちは皆高齢となっている。

特別法廷の公判が今後どのように展開していくかはわからないが、とにかく出来るだけ

速やかに、正義に則った裁きが進んでいくことを切に願う。

2009年2月17日 (火)

怒り心頭!

しどろもどろの「醜態」を世界中にさらした中川が辞意を表明したというニュース、

まったくどうなっているのかとテレビの前で怒りがまたまた噴き出した。

とんでもない人間に国ならびに非常事態を任していたのかと思うと、心底憤りを覚える。

予算と関連法案が衆院通過後に辞任すると言ったが、即刻辞めさせるべきだ。

    ※与野党からの『辞任すべし』コールで夕方自ら辞めた。これも二転三転、発言にも

    明らかにごまかしがある。

最初の辞任ニュースを聞いたとき、したたか極まりない財務省の役人たちが、辞めると

言った大臣の言うことを聞くはずがないし、中川も仕事ができるはずがないと思った。

追い込まれることはわかっていたのに、すぐクビにしなかった麻生がまたまた「醜態」を

さらした。決断できず、またもや、ぶれぶれ。

中川のあの「醜態」は酒以外考えられない。

飲酒の欲求すら抑えられない男に未曽有の経済危機を任せてきたのかと考えただけで

怒り心頭。

それとともに、今朝予定されていた衆議院予算委員会と参議院財政金融委員会は

中川が病院に行き欠席したため流会になったと聞き、これも頭にきた。

這ってでも仕事に行け! サラリーマンですら少々のことでは休めないし、休まない。

風邪ごときで病院なんて行くな!

激務、疲労は当たり前。厳しい状況を乗り越えなければならない立場にいるのだから。

午後のニュースではたしか入院すると言っていた。逃亡した安倍を思い出す。

泥酔し世界に「醜態」をさらし、挙句の果ては入院逃避!

クビ切り、失業、疾病、自殺・・・、国民はどれだけ厳しい状況におかれていることか。

ここまで政治が地に堕ちた時代はないのではなかろうか。

この国の行く末はどうなるのかと国民の大半が心を痛めている。

とにかく選挙で、我々ひとりひとりがどうあるべきかを票で訴えていく以外道はない。

2009年2月16日 (月)

熱海にて(2)

昨日日曜日、横須賀に帰ってきた。結局ひとりで10日間熱海にいたことになる。

ひとりでこんな長くいたのは初めて。でも、ぜんぜん退屈はしなかった。

明日帰るとカミサンに連絡したら、『もう少しいたら。こちら何も問題ないから』と、言われ

たが、食事をつくるのも飽きてきたし、洗濯も掃除もしたし、引き上げ時だと思って

帰ってきた。

夜は10日ぶりにカミサンの料理を食べ、ありがたさを感じた。炊き込みゴハンだった。

こういうのはボクにはつくれない。

熱海にいた間、天気がいい日が続き、Rimg05871

あちこち散策した。

我が家の最寄駅からひとつ先の  

下多賀を歩いてみようと思い出かけた。

伊豆多賀駅はいい雰囲気の小さな駅だった。

駅前に近辺を説明した案内板があり、

見どころと思われる場所が紹介されていた。

海が臨めそうな方向に歩いてみることにした。海沿いから上り坂を上がっていくと、

海がきれいに見え、このあたりでは由緒ありそうなヒマラヤザクラという桜があった。

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下多賀駅まで戻り、電車で我が家の最寄駅、来宮まで帰った。

ちょうど熱海梅園の梅が見頃のRimg0606時期であり、  

家に帰る前、梅園に寄った。

篤志家からの寄付をもとに2年間かけて

梅園はリニューワルが行われた。

リニューワルの完成を記念して植樹が

されていた。

早咲きの梅は既に満開を過ぎた感じだった。

植えられたばかりの鮮やかな黄色のスイセンが

きれいだった。

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梅園からの帰り道、丹那トンネル建設工事の犠牲者を祀る丹那神社と殉職碑に

お参りした。

丹那トンネルは東海道本線の熱海駅を過ぎるとすぐの8km近い長いトンネルである。

16年の歳月をかけた難工事の末、昭和9年にトンネルは出来上がった。

67名の尊い命の犠牲のもと、トンネルの完成で、悲願であった現在の東海道本線は

開通した。

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2009年2月14日 (土)

SITAの思い出(5)

自分で立ち上げたSITA定年退職する前に自らも受験しなければとずっと思っていた。

退職まであと半年となった04年1月、やっとその気になって勉強をはじめた。

どうせチャレンジするなら1級だと決めたものの、最も自信がなかったのは2次試験の

実技操作。WordとExcelの課題を解く試験である。難易度はマイクロソフトのマウス

試験の一般くらいだと言われていた。特にExcelなんてほとんど使ったことがなかったし

Wordだって資料を作るのに必要な範囲しか使ってなかった。

先ず、受講料を払って三鷹の試験会場に対策講座を受けに行った。対策講座だから

機能を教えてくれるものと思ったら、過去問題解きと解説だけ。案の定全然解けない。

これじゃとてもダメだと思い、1級・2級実技試験対策テキストを使って、3ヶ月間くらい

夜と週末に勉強した。受験することを知った知り合いの合格者の女性が、ドサッと

資料や問題集を送ってくださった。

あわせてインストラクション試験の準備もしなければならなかった。指定テキストを

使って、模擬講習会の講師を10分間実演する試験で、テキスト中の出題範囲は

決まっていた。カミサンの前で何度か練習し聞いてもらったが『あなたの説明はよく

わからない』と言われ、この試験の準備も大変だった。

とにかくネットで受験申込みし、退職2か月前の04年4月に表参道の教室で受験した。

この教室を運営する会社の社長はよく知っていて、試験が終わったあと、さんざん

『大丈夫ですかねぇ』と冷やかされた。1級の合格率は当時たしか20%前後だった

ので、このようにからかわれるのも当然だった。

頑張った結果、後日何とか合格通知がメールで送られてきた。晴れて有資格者の

仲間に入れ、本当にホッとした。

04年6月、退職したあと、全国に15できた有資格者グループの横連携が取れる

仕組みをつくりたいと思い、9月にSITAユニオンを立ち上げた。

全国のSITAグループの5人のリーダーの方々にお願いしSITAユニオンのメンバーに

なっていただいた。横連携を取っていくためには、当然ホームページが必要となる。

メンバーに入れていただいた町田のアクティブSITAのMさんにご無理を言いホーム

ページを作っていただいた。メーリングリストも立ち上げた。

横連携を取っていく以上ネットだけでなく、メンバーが顔を合わせる機会をつくる必要が

あると考え、SITAユニオン主催で、富士通にも協力してもらい東京、大阪、名古屋で

5度くらいSITA交流会を行った。

最も印象に残る交流会は05年7月、愛知万博の市民パピリオンメインホールを借りて

SITAネット東海を中心に行った第1回西日本SITA交流会である。

このようにたくさんの思い出のあるSITA、はじめて8年経った現在、最新の数字は

不明であるが、おそらく1~3級のトータル延べ受験者数は1万人を超えたのでは

ないかと思う。

はじめる前に指摘された通り、退職時は事業的には赤字だった。おそらく今も良くて

収支とんとんではなかろうか。

ただ資格を取られた多くの皆さんが全国各地でいきいきと活躍されていて、その意味

ではお役に立てているのでないかと思う。

また個人的には定年退職後も何か会社にのこることをやりたいとの思いも達成できた。

5回にわたる長文の思い出話にお付き合いいただきまして、ありがとうございました。

2009年2月12日 (木)

SITAの思い出(4)

SITA(サイタ)を受験していただく方が増えるに伴い、実際どんな方がどのような思いで

受けていただいているのか、また受験していただいた方々の印象を知りたくなった。

そこで合格された首都圏の皆さまにメールを送り、お集まりいただき「意見交換会」を

行うことにした。試験をはじめた翌年01年の中ころのことであった。

東京で数回、あとは大阪、名古屋、福岡で行ない、さまざまなご意見をいただいた。

いただいたご意見の多くを試験の仕組み・内容の改定に結びつけた。

意見交換会を行うことにより、ほかにも副産物があった。

参加された皆さまそれぞれほかの参加者の方々と顔を合わされるのは、もちろん

初めてであった。決まって起きたのは会が終わったあと帰り道、皆さんで話の続きを

して懇親を深められたことだった。

このことがきっかけとなり、参加者の皆さんが地元でグループをつくることに発展して

いった。

グループをつくる目的は共通して、①地域で仲間と交流・懇親をしたい、②みんなで

活躍の場をつくりたい、③勉強会をやりたい、の3点であった。

『グループつくりの呼びかけ文を用意するので、近隣に住む人たちにSITA事務局より

送って欲しい』との要請をあちこちからいただいた。

このような経緯で各地にグループができ、多くの会の発足会に招待していただいた。

こうして全国に15のグループが誕生した。

15のグループはそれぞれ地元でさまざまな活動を行っている。

その中のいくつかを紹介すると、

技術力のあるメンバーが集まり自分たちでパソコン教室も運営している埼玉県の

グループ”NPO法人彩SITA

シニアITアドバイザーの認定試験団体にもなった大阪高槻のグループ

SITAもみじネット

最初にできたSITAグループで情報交換、勉強会など和気あいあいの活動を長い間

続けている首都圏全域に会員がいる”さいたネット

「地元に元気を!」をモットーに大阪北摂地区で活動を続けている”北摂SITAの会

会発足以来6年間で60回近い勉強会を続けている東京町田を中心に活動している

NPO法人アクティブSITA

一緒の受験会場だったことが縁で発足し、地元のあちこちで講習会活動を続けている

関西のグループ”阪神SITAクラブ

受験していただく方が増え、このように各地で多くの合格者のグループができたことは

大変うれしい。

意見交換会だけでなく、東京・大阪では何度もSITA交流会を行い、有資格者が交流、

意見交換、懇親ができる機会を積極的に設けた。

最後、SITAの思い出(5)では、自らの受験と全国のグループの横連携を目指した

活動を紹介したい。

2009年2月11日 (水)

熱海にて(1)

先週金曜日から熱海に来ている。

カミサンを誘ったが、体調を理由に断られたのでひとりで来た。

食料、食材を買い込んでレシピの書いてある新聞もいくつか持って、しばらく籠城できる

態勢で(笑)、自衛してきた。持ってきた中、特にアンコウ鍋とステーキは美味かった。

横須賀と熱海で、ケータイでメールのやりとりをする以外は連絡することもなく、お互い

気ままに過ごしている。お互いの様子は相手のブログを見ればわかる。

持ってきた本を読み、ブログを書き、新聞数紙にじっくり目を通し、ほぼ毎日近くを歩き、

夕方はマンション内のジムで汗を流し、という毎日である。

そういう中、今朝観たNHKの2時間番組”双方向解説 そこが知りたい!”は、大変

面白かった。政治・経済・福祉・労働・海外の各分野を担当する男女の解説員・記者が

意見を述べ合う番組だった。

雇用、政治、経済、企業経営、セーフティネット、海外事情・・・、鋭い視点から意見や

思いがどんどん出て、なるほどそういう考え方もあるんだと思う点も多々あり、聞き

飽きた評論家がコメントする番組に比べ新鮮さを感じた。

こちらに来てすぐ聞いたのは、 Rimg0592 

20日くらい前に起きたマンションの

すぐそばでの火事の話。

放火・殺人未遂で61歳の女が逮捕

された事件であった。アパートなど3棟

250㎡が焼けた。人口4万人の

熱海では結構大きな事件である。

火事現場を見たあと、昔よく愛犬チェリーを連れて散歩した道を歩いていると、途中

日曜日しか開いていない坪内逍遥の旧家双柿舎がオープンしているのを見つけ、

久しぶりに見学した。坪内逍遥は早稲田大学創立の功労者であったことから、別荘は

早稲田大学に寄贈された。双柿舎は庭園に植えられた2本の柿の木から命名された。

Rimg0596 Rimg0599 

双柿舎のあと町中を流れる糸川沿いに

植えられた早咲きの熱海桜を見に行った。  Rimg0605 

満開は過ぎ、散りはじめている感じだった。

早咲きでは伊豆の河津の河津桜が有名で

ある。熱海桜はまだ知る人ぞ知るのレベル。

いつの日にか河津桜を凌ぐ日が来ることを

熱海ファンとしては願っている。

糸川のあと海岸まで歩き、帰りスーパーに

寄り、買い物をして帰った。

この日の万歩計の数字は8千歩超。

2009年2月10日 (火)

SITAの思い出(3)

SITA(サイタ)を多くの方に知っていただくため、さまざまなところに説明・PRに行った。

国の役所の関係では文部科学省、総務省、厚生労働省、経済産業省。

ネットで検索しここはと思う部署に電話し用件を話すとどこも快く訪問を受けてくれた。

『趣旨はとても良い』と総じて好印象で受け取ってくれた。

ただ、『広めていくため、それに資格を取得した人へ活動の場の提供の2点に対し

役所として何か支援してもらえないだろうか』との問いかけに対しては、どこからも

前向きな返事はなかった。

首都圏中心であったが、県庁や市区役所も訪問し、説明・PRを行った。

加えて、相当あちこち回ったのはシルバー人材センターと生涯学習センターであった。

特に多くのシルバー人材センターは興味を持って話を聞いてくださって、会員に説明し

受験するよう働きかけしてくださったセンターもあちこちあった。

全国シルバー人材センター連合会や東京都シルバー人材センター連合会も何度か

訪ねた。東京都ではシルバー人材センター全支部の集まる会合で説明させてもらった

こともあり、シルバー人材センターとして新たな仕事の掘り起こしのきっかけにしたい

との思いで、あちこちのセンターでSITAに挑戦していただいた。

広島市や高知市などのシルバー人材センターでも同様の動きがあった。

生涯学習センターの関連では、大阪八尾市のセンターの主査の方がSITAに共感して

くださって、試験のたび毎回団体で受験していただいた。

合格された方々が地元でグループをつくられNPO団体の認定を受け、6年たった

今でもNPO法人かがやきSITAとして、地元で皆さん活発に活動を続けられている。

また、例えば徳島県シルバー大学校ではIT講座で毎年50名の方々がSITAを受験

してくださっている。ボクが定年した直後からはじまったのでもう4年以上になる。

ただ、徳島県シルバー大学校でもそうであるが、資格を取得された方の活躍の場

つくりが常に課題となる。

SITAをはじめたとき先ず一番にやったことは試験制度つくり、同時に告知とPR。

それに合わせて活躍の場つくり、これを並行してやっていかないとと強く思った。

試験を真ん中にはさんで、いわば”入”と”出”である。

ただ、広い範囲で”出”をつくっていくことは容易ではない。.

2001~2年は総務省がちょうど全国でIT講習会を実施した時期だった。会社でも

あちこちで講習会を受託したため、その講師としてかなりの数の方に活躍して

いただいた。また、会社で運営していたパソコン教室の講師にも登用した。自宅で

パソコン教室をはじめられた方もいた。

こうして、”入”と”出”、それに真ん中の試験は徐々に体をなしてきた。

SITAの思い出(4)では、並行した動きとして全国に出来てきた合格者のグループに

ついて紹介したい。

2009年2月 9日 (月)

SITAの思い出(2)

シニアITアドバイザー(SITA:サイタ)試験には1級~3級を設けた。

在籍した会社は企業向け教育・研修を中心に行っており、自ら試験制度をつくること、

しかも対象がシニアであること、すべてが初めての経験だった。そのため試行錯誤の

連続であった。試験をスタートしたあと、受験していただいた方からさまざまなご意見を

いただき、見直し、修正した部分もいろいろあった。

1級・2級試験には、一般知識を問う1次試験および実技操作(Word,Excel)とインスト

ラクション審査を行う2次試験を設けた。スタート当初は1次試験、2次試験ともに

試験会場まで来て受験していただいた。

後日、シニア向け試験としては1級1次試験の問題数が多すぎると苦情が出た。

第1回試験では60分で100問出題。苦情は当然であった。

加えて、一般知識を問う1次試験受験のためわざわざ試験会場に来ていただくのは

申し訳ないと考え、こちらは自宅でネットで受験していただけるように変更した。

SITA試験のかなめはインストラクション審査であった。

与えられた課題を講義してもらい、初心者にいかに易しく解りやすく説明できるかを

チェックすることがポイントであった。最盛期には全国に10ヶ所以上試験会場があり

試験官は全員会社が運営していたパソコン教室の講師であった。試験官の間で

偏差が出ないよう、審査方法に工夫を加え、全員に繰り返し徹底した。

試験は実施回数を重ねるとともにどんどん充実してきた。

試験制度が確立したあと、次の課題はSITAの存在を知ってもらい、いかに多くの方に

挑戦していただくかであった。

告知のために費用をかけることはできなかった。そのため金のかからない方法で

告知・PRを考えていかねばならなかった。それには新聞・雑誌のメディアを利用する

こと、それに足でかせぐことしかないと考えた。

01年中ころ、何もコネのない中、朝日新聞に取材を申し込んだら、経済部の記者が

会社に訪ねてきて下さった。SITAの考え方に共鳴し、結構大きな記事を書いて

下さった。この記事を見て受験された方は少なくなかった。SITAの立ち上がりに

大きな弾みがついた。

02年になると合格された方があちこちでグループを作りはじめた。それを題材に

全国の地方紙に記事を配信する共同通信に取材を申し込んだら応じてくれ、記事に

して下さった。全国の地方紙21紙に大きな記事が掲載され、その反響はすごかった。

電話が鳴りぱなしの日が続き、昼休み、外に食事に行けず交替で電話番した日が

しばらく続いた。

結果、新潟・徳島・広島・仙台・名古屋などあちこちで説明会と出張試験を行った。

03年にはソフトバンクが発刊する月刊誌「暮らしとパソコン」に声をかけ、取材して

もらった。「暮らしとパソコン」には半年近く連続して記事を掲載していただいた。

メディアの告知だけでなく、あちこちに足を運び説明・PRを行った。

そのことはSITAの思い出(3)で。

2009年2月 7日 (土)

SITAの思い出(1)

定年退職し、6月で5年になる。

定年する前、自分が退職したあと何か会社に遺したいとの思いで、最後の仕事として

取り組んだのがシニアITアドバイザー(SITA:サイタ)試験制度であった。

試験を開始したのは2000年の11月。

総務省が全国各地でIT講習会をはじめたのは2001年。2000年当時はまだ今の

ようにパソコンが設置された公的施設は珍しく、また、パソコンを勉強したいと考える

人の割合もそれほど高くなかった。

そのような中、きっとパソコンを勉強したいと考える人たちは急速に増えるだろう、

それに伴い指導する人の数の増加と質の向上が必ず求められるようになってくると

考えた。

リタイアした男性、子育ての終わった女性に教える役を担ってもらおう、そのために

教える人たちの技術力と指導力を審査し認定する試験制度をつくろうと考え、立ち

上げたのがシニアITアドバイザー試験制度であった。

当時在籍していた富士通ラーニングメディアという会社は富士通の子会社のひとつで

教育を専門に行う会社である。そのため試験問題の作成、実施、審査、認定という

ことではまったく問題なかった。

ただ、試験制度をはじめるということでは幹部がなかなか了承しなかった。理由は、

事業として成り立たないであろうということ、それにシニアが今さら試験は受けない

だろうという2点からだった。

『たとえ事業化が出来なかったとしても大きな損失が出ることはない。社会貢献の

観点からもぜひやりたい』と押し切ってスタートした。そのためスタートしたあと余分な

費用をかけることは難しかった。

一方、シニアITアドバイザー(SITA:サイタ)の命名、特にサイタの呼称にはシニアの

試験制度の名前としては悪くないと、我ながら満足した。

新しいことをはじめるときは何ごともそうであるが、シニアITアドバイザー試験なんて

世の中の誰も知らない。費用をかけないで知ってもらう活動と努力をすることが、先ず

一番必要であった。当時はネットでの検索も今ほどポピュラーではなかった。

今でもはっきり覚えている。00年8月、当時日本経済新聞社が毎年行っていた

”ぱそまる”というイベントで会社が設けたブースの一部を借りてシニアITアドバイザー

のお披露目をやった。ブースに立ち寄ってくださったシニアの皆さんに興味を持って

いただき色々質問を受けた。ただ、まだ試験の詳細が決まっていなかったため答えに

窮する質問がたくさんあった。特に、『いつからこの試験ははじまるか』という質問に

明確に答えられず申し訳なかった。連絡先をお聞きし後日お答えするということで対応

せざるを得なかった。

その後、関係者全員ガンバって、第1回の試験が00年11月にスタートした。

ただ、試行錯誤ではじめたところがあり、後日あれこれ見直し、修正することになった。

このことは、SITAの思い出(2)で。

2009年2月 5日 (木)

e-ネットキャラバン(2)

1月24日のブログでe-ネットキャラバンのことを書いた。

”e-ネットキャラバン”は、総務省が3年前に始め、子供がインターネットや携帯電話

サイトのトラブルに巻き込まれないよう、全国の小中高校の保護者を対象に、予防と

対処方法を講義、指導するプロジェクトである。

ITを活用しシニアがさまざまな事業に取り組み、アクティブに活動を続けているNPO

法人イー・エルダーがe-ネットキャラバン事業を受託し、学校で行う講習会の講師が

必要となり、その講師を全国のシニアITアドバイザー(SITA:サイタ)の人たちに

お願いしようということになった。

昨日、イー・エルダーの鈴木理事長と一緒にSITA試験の主宰・運営元である富士通

ラーニングメディアを訪ねた。

富士通ラーニングメディアはボクが最後に在籍した会社で、SITA試験制度は定年前

最後の仕事して手がけた。

会社を訪ねたのは数年ぶりだった。久しぶりにかつての職場の仲間に会えるのを

楽しみに出かけた。事務所は蒲田から品川に移っていた。

品川の港南口一帯の変わり様には驚いた。

打ち合わせをしたのは、かつて一緒に仕事をした女性のK課長。

鈴木さんが経緯、プロジェクトの内容について説明し、全国の小中高校の保護者向け

講習会の講師をSITAの人たちにお願いしたいと依頼。Kさんからは快諾する旨の

返事があった。

全国のSITA1級・2級有資格者が2千人を超えたとのこと。

1級・2級の合格率、ならびに3級の受験者数を考えると、これまでに試験に挑戦して

いただいたシニアの人たちの累計は1万人を超えたのではないかと思う。

SITAを立ち上げた張本人としては大変うれしい。(SITAにまつわる思い出話は

後日書きたい)

打ち合わせが終わったあと、事務所の中をぶらぶらした。

あちこちでなじみの顔を見かけ、おしゃべりした。

一緒に仕事をした何人かが、数年続けて家族連れで、夏熱海に遊びにきていた。

そのうちのひとりから、『今年は久しぶりにぜひみんなでお邪魔させてください』と

リクエストがあった。

数年ぶりに訪ねた会社でこうしてみんなが懐かしく声をかけてくれ、大変うれしかった。

2009年2月 3日 (火)

1泊合宿

横浜の娘宅に1泊したあと、1月29日のブログに書いた犯罪被害者団体ネットワーク

ハートバンド事務局長のSさんからお誘いを受けたハートバンド実行委員会の1泊

合宿に参加した。

昨年11月に行われた犯罪被害者週間全国大会に初めて参加したことは12月1日の

ブログに書いた。

実行委員会は本郷にある旅館で行われた。もちろん参加は初めて。

土曜日の2時、全国の団体の代表と運営委員22名が集まった。

昨秋の全国大会で会った人もいたが、多くの参加者とは初対面だった。

先ず、11月に行った全国大会のまとめと反省について活発な議論が行われた。

次いで08年の決算見込みと09年の予算案の説明、ならびに今後の組織の運営

体制について、かなりの時間を割いて議論した。

途中、夕食をはさみ、少々アルコールが入ったあとも議論は続いた。

課題である事務所と常勤者の確保についてさまざまな意見が出た。事務所と常勤者

確保は立ち上げから間がないNPOや任意団体のどこもが抱える問題である。

上記の討議を踏まえ、今年秋に予定されている全国大会2009について最も時間を

割いて議論した。

夜9時まで意見を出し合い、あとは翌朝9時に再開することで初日は終わった。

翌朝は朝食後さえた頭で議論し、全国大会2009の骨格決めを行った。

基調テーマ、開催期日、会場、予算、企画内容、講演者、分科会、懇親会、

マスメディア対応・・・

初めての参加で、これまでの経緯や事情のわからないところも色々あったが、

皆さん現場の実践者ばかりで建設的な意見がたくさん出て、有意義な会合であった。

事務局長のSさんより『これからも引き続き関与して欲しい。ぜひ運営委員の一員に

なって欲しい』と言われ、承諾した。

次回の実行委員会は4月18日と決まり、皆さんと再会を約し散会した。

旅館は東京大学の正門の近くで、本郷には来たことがなかったため、終わったあと

東大内を散策した。初めて安田講堂、三四郎池、赤門を見た。さすが東大だと思うと

ともに、合格した地方出身者はこのキャンパスを見たら大感激することだろうなあと

思いながら校内をぶらぶら歩いた。

2009年2月 1日 (日)

またまたヘルプを頼まれ

横浜の娘から連絡があり、『お友だちのところにパパとふたりで出かけたいので、

ヘルプに来てくれない』と頼まれた。カミサンが人間ドックの再検査を娘の家の近くの

検診センターで受ける日とちょうどうまく合い、ふたりで泊まりがけで出かけた。

もうお雛様が飾ってあった。Rimg0579

姉孫のミサキは、幼稚園のクラスの  

20人のうち、7人が風邪で休みという

ことでクラス閉鎖になっていて金曜日は

1日お休み。本人も風邪気味だった。

数日前に娘からケータイにメールが届き

10か月になった妹孫のユナがいよいよ

這い這いをはじめたと聞いていた。

目が離せない。動き回るし、落ちているものは食べるし。とにかく食欲はすごい。

『パーパ』が言えるようになっていた。ただ、パパのことを言っているわけではなく、

一番言いやすく、言えた言葉が『パーパ』のようだ。呼ばれる自分の名前が自分の

名前であると認識できているかどうかも、まだ不明。

おもちゃの取り合いがもうはじまっていた。

4歳のミサキに、譲ることを求めるのはまだちょっと早そう。

Rimg0584 Rimg0574

ふたりの子育てと家事、娘の大変さを

あらためて感じた。    Rimg0581

朝から晩まで休みなく動き回っている。

大人と子供の3回の食事つくり、洗濯、

掃除、風呂。夜中もいぜんとして何度も

ユナに起こされているようだ。

カミサンもパパも一部ボクも手伝う

とはいえ、大半は娘がやっている。

写真は、まさにおんぶにだっこ。

母親は誰でも通る道だから仕方ないと思っていたが、子育てと家事の大変さを

あらためて痛感した。

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